万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年02月

山家集 上巻 春 38 7019

主いかに 風わたるとて いとふらん 餘所にうれしき 梅の匂を
ぬしいかに かぜわたるとて いとうらん よそにうれしき うめのにおいを

<私が考えた歌の意味>
隣の僧坊の主人は、梅が散ってしまう、と風が吹くのを嫌っているが、どうしてなのだろう。
隣に住む私にとっては、梅の香りがしてきてうれしいのに。

<私の想像を加えた歌の意味>
隣の寺のお坊さんは、梅の花の盛りの時期に風が吹くのを嫌っている。
せっかくの梅の花を風が散らしてしまうと、いかにも惜しがっている。
近所に住む私には、梅の香りを届けてくれるうれしい春の風なのに。

<歌の感想>
 梅の味わい方にもいろいろとあり、他人の態度まで気になるとみえる。私なら、梅を独り占めするような楽しみ方はしないのに、という作者の気持ちが込められている。

万葉集 巻一 73

我妹子を 早み浜風 大和なる 我松椿 吹かざるなゆめ
わぎもこを はやみはまかぜ やまとなる われまつつばき ふかざるなゆめ

<私が考えた歌の意味>
家に残してきた妻に早く会いたい。
浜風よ、大和の私の家の松や椿に吹かないでくれ。

<私の想像を加えた歌の意味>
早く大和に戻って、妻に会いたい。
ここでは、浜風が強く吹いている。
早い浜風よ、私が帰る前に大和まで至らないでくれ。
浜風よ、私を待っている家の松や椿を吹き荒らさないでくれ。

<歌の感想>
 歌の意味をはすっきりとは伝わってこない。風と大和の家との関係がぼんやりとしている。それよりは、「早み」が早く見たい意味と、早い意味、「松」が、松と待つの掛詞になっている面白さの方が重要なのであろう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

<私が考えた歌の意味>(1回目 2016/817)
砂を握ればさらさらと指の間から落ちていく。
生命をもたない砂はかなしい。

<私の想像を加えた歌の意味>(1回目 2016/8/17)
海辺の砂を握りしめてみる。
強くしっかりと握るが、砂は指の間から落ちる。
どんなに落とさないようにしようとしても、少しずつ少しずつ落ちてしまう。

<私の想像を加えた歌の意味>(2回目 2016/8/18)
砂を握りしめる。
砂は私の指の間からさらさらと落ちる。
砂の落ちていくさまを見つめる。
私の手から落ちていく砂には意思も感情もない。
でも、動いていく。
命のない砂の動きを、命ある私が見つめている。
かなしさが心に浸み込む。


※2016/11/10の記事の一部を変えて、更新します。(2017/2/15)

<私が考えた歌の意味>(3回目 2016/11/10)
いのちのない砂のかなしさだ。
砂を握ると、サラサラと指の間から落ちていく。

<私の想像を加えた歌の意味>(3回目 2016/11/10)
砂を手に取り、握りしめる。
砂は指の間から落ちる。
サラサラと落ちていく。
落ちていく砂は、私の指にサラサラと触れる。
こぼれ落ちていく砂に、いのちなきもののかなしさをみる。

<歌の感想>
 この短歌について、三回目の記事だ。
 今回は、砂そのものに注目した。この短歌で表現されているのは、作者の指の間から落ちていく砂だ。サラサラと落ちていく砂だ。
 「かなしさ」は、この短歌全体を覆う気分を表し、砂の動きをより印象付けるための言葉と感じる。
 啄木の短歌は、表現したいことが明確だ。「悲しみ」なら「悲しみ」そのものを伝えてくる。作者が行ったことであればそれをそのまま伝えてくる。
 この短歌では、握った砂が指の間から落ちていく様子を、読者に伝えていると感じる。

万葉集 巻一 72

玉藻刈る 沖辺は漕がじ しきたへの 枕のあたり 忘れかねつも
たまもかる おきへはこがじ しきたえの まくらのあたり わすれかねつも

<私が考えた歌の意味>
舟遊びをしないでおこう。
妻のことばかり思い出されるので。

<私の想像を加えた歌の意味>
みんなは今日も舟遊びに興じ、沖へと漕ぎだしていく。
私は、舟遊びに行く気にもなれない。
留守にしている家のことが気にかかるからだ。
とりわけ、妻と睦まじくしたことばかりに思いがいく。

<歌の感想>
 四区目は家の妻のことを指しているという解釈に沿って歌意を考えた。家の妻ではなく、旅先での女性とする解釈もある。
 家の妻のことを恋しく思っている気持ちを表した類型的な作のひとつのように感じる。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

水仙は八頭身の少女にて風の日の丘にひとり咲きたり

<感想>
 春を感じるとはいえ、まだ外の風は寒い。身をすくめながら、ふっと見上げると、見上げた先に水仙の花が見える。あのすっきりと伸びている水仙をどう表そうか、作者は思ったことだろう。
 「八頭身の少女」が効いている。「八頭身」も「少女」も歌語でもなければ、新しい感覚の語でもない。それなのに、画像では表現しきれないまでに、水仙の咲く姿を描いている。

万葉集 巻一 71

大和恋ひ 眠の寝らえぬに 心なく この洲崎廻に 鶴鳴くべしや
やまとこい いのねらえぬに こころなく このすさきみに たずなくべしや

<私が考えた歌の意味>
洲崎の辺りから鶴の鳴き声が聞こえる。
大和のことが恋しくて眠りにもつけない。
私の心も考えずに鶴が鳴いてよいものか。

<私の想像を加えた歌の意味>
鶴の声は、もの悲しいものだ。
今晩は、洲崎の辺りから鶴の鳴き声が聞こえている。
家を思う時に、鶴の声を聞くともっと恋しくなる。
大和の妻子に会いたくなって、眠りにつくこともできない。
鶴よ、そんなに鳴かないでくれ。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

氷点下十五度の街に住む息子凍ったのだろうメールも返らず

<感想>
 息子の勤務地か、学校の所在地が寒い地方なのだろう。海外かもしれない。心配でたまらないというよりも、ちっとも便りを寄こさないことに、少々腹を立てている。「息子凍ったのだろう」がなんともよい。
 作者の気持ちに共感できる。さらに、心配はしているが母親の感情を押し付けない、そんな親の在り方も感じ取れる。

万葉集 巻一 70

大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 鳥象の中山 呼ぶびそ越ゆなる
やまとには なきてかくらん よぶこどり きさのなかやま よびそこゆなる

<私が考えた歌の意味>
大和の私の妻と子は、呼子鳥が鳴きながら飛んで来たと思うだろう。
今は私のいるきさの中山を越えていく呼子鳥の声が聞こえている。

<私の想像を加えた歌の意味>
今、旅先で鳴き声の聞こえている呼子鳥は、妻と子のいる大和へ飛んでいくのだろう。
渡ってきた呼子鳥の声を聞くと、妻や子は私が懐かしがって呼んでいると思うだろう。
きさの中山には、空高く渡っていく呼子鳥の声が響いている。

<歌の感想>
 鳥の泣き声を描き、その鳥の飛ぶ先を想像することで、家や家族を思う気持ちを表現している。
 今、眼前にある風物だけでなく、遠く離れた場所の時間的に先のことが描かれている。巻一の作者は、いくつかの短歌で、距離的に離れた場所を表現することに、強い意欲を示していると感じる。
 呼子鳥が大和から飛んで来た、と解する注釈書もある。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

きさらぎの空はどこかが破れいて照りながらふる雪のかそけさ

<感想>
 まさに、昨日今日の空模様だ。ただし、私の住むのは雪国なので、如月の雪はまだかそけしとはいかない。
 表現にはないが、過疎地の風景でも山中の気象でもないと感じる。ビルの狭間から空を見上げる作者を想像する。古語をつかいながら、現代の風景を感じさせるのは、「空はどこかが破れいて照りながらふる」の効果であろう。
 さらに、「きさらぎ」「かそけさ」は優美さを狙っただけではないと思う。今降る雪は平成の街の雪だが、作者がとらえているのは、昔の歌人の眼に映った雪にもつながるという感覚を導き出している。
 短歌という形式と日本語が、時代の積み重ねの中でさらに進化するものであってほしい。

万葉集 巻一 69

草まくら 旅行く君と 知らませば 岸の羽生に にほはさましを
くさまくら たびゆくきみと しらませば きしのはにゅうに におわさましを

<私が考えた歌の意味>
旅へ行くあなたと知っていたならば、やってあげたいことがありました。
それは、住吉の岸の黄土色の土で、衣をお染めすることです。

<私の想像を加えた歌の意味>
こんなに早くお発ちになるとは思っていませんでした。
それが前から分かっていましたら、もっといろいろな所をご案内したかったのですよ。
住吉の岸へもご一緒したかったのに。
こんなに短い間しかお泊りにならないなんて、残念です。

<歌の感想>
 「にほはさましを」は、黄土で衣を染めてさしあげること、と解説されている。それが、どんなことを指すのかはよく分からない。
 行幸に伴う旅がどの程度辛いものなのか、あるいは、楽しいものなのかも、実態をつかむことは難しい。
 分からないことは、分からないこととして味わっていきたいと思う。
 そう考えるて、衣を染めるととらえるよりは、名所に一緒に行きたかったと、現代の感覚に引き寄せてみた。また、「草まくら」という枕詞も、現代ではイメージが湧かないので、単に音調とリズムを整えるものとして味わった。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

秋の神の御衣(みけし)より曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ

<私が考えた歌の意味>
秋の神の衣装が曳いている白い虹。
その虹は物思う乙女の額に消えていく。

<私の想像を加えた歌の意味>
秋を司る神がやって来たようだ。
秋の神の衣装から虹が流れ出る。
流れ出た虹は、地上で色を失い、白い虹となる。
白い虹は、私の額に吸い込まれる。
秋の訪れに、私は物思う。

<歌の感想>
 「白き虹」とは、いかにも作者らしい感覚だ。虹が消える様子や、虹が地上に接する場所を想像することができる。
 「ものおもふ子」のことを見ながら描いているととらえるよりは、自分のことを客観視して描いているととらえる方がふさわしいと思う。

万葉集 巻一 68

大伴の 御津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや
おおともの みつのはまなる わすれがい いえなるいもを わすれておもえや

<私が考えた歌の意味>
大伴の浜に忘れ貝が落ちている。
忘れ貝とは言うが、私が忘れることなどあるだろうか。
家に残してきた妻のことを。

<私の想像を加えた歌の意味>
貝殻が浜に落ちている。
これが忘れ貝だ。
忘れ貝という呼び方を聞くと、かえって思い出してしまう。
今ごろ、家にいる妻はどうしているだろう。
私は、大伴の浜に来ている。
いくら離れていても、妻のことは片時も忘れることはない。

朝日新聞夕刊2017/1/18 模索の果て 萩原 慎一郎 

遅刻せぬよう走るのだ 鬣(たてがみ)をなびかせ走る馬のごとくに

<感想>
 作者は1984年生まれとあった。こういう年齢の人の感情がこんなに素直に伝わってくることが珍しい。真面目で不器用そうだ。真面目は、今は美徳でも長所でもない。でも、こういう若い人が好きだ。
 走れ、走れ、「鬣」をなびかせるて走るのはカッコいいぞ。そして、もし遅刻したら、言い訳せずに謝れ。
 こういう気持ちの人と、じっくりと話してみたい。

万葉集 巻一 67

旅にして もの戀しきに、家言も 聞こえざりせば 戀ひて死なまし
たびにして ものこいしきに いえごとも きこえざりせば こいてしなまし

口訳萬葉集 折口信夫 より
 旅に出て居て、故郷のことが気にかかる時分に、家からのたよりが来た。もしこんな時に、家からの消息さへも聞こえて来なかったら、何の慰めることもなく、ひたすら戀しさに、焦がれ死んでしまふことであらう。

※新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店 では、二・三句目原文解読困難とある。書き訓し文と訳は、口訳萬葉集に拠った。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

屋上に雪の聖岳(ひじり)を見て戻る午後の事務所(オフィス)の小さき業務に

<感想>
 作者とともにふっと心を緩ませることができた。
 近くの数字ばかりを見続けていた目を遠くの雪山にやる。ビルの屋上から望める聖岳は、別世界のようだ。でも、もう午後の仕事に戻らなければならない。それもさしておもしろくも生産的でもない業務だ。でも、やり終えよう。そんな気持ちで、屋上からの階段を下りる作者が浮かんでくる。
 オフィスの机の上の書類と雪の聖岳、その対照的な光景が屋上で転換し連続する。
 「小さき業務」だけに縛られない作者の心が素敵だ。

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