万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 一握の砂

肺を病む
極道地主(ごくどうじぬし)の総領の
よめとりの日の春の雷(らい)かな


<歌の意味>
肺病に罹っている上に、男は遊んでばかりの乱れた生活をしている。
そんな生活ができるのもこの男が、地主の長男息子だからだろう。
その男が、今度は嫁をもらうという。
今日は春ののどかな日だ。
その今日が、地主の長男の結婚の日のようだ。
のどかな春の日なのに、雷の音が遠くから聞こえる。

意地悪の大工の子なども悲しかり
戦(いくさ)に出でしが
生きてかへらず


<思い浮かぶ作者の気持ち>
村の大工の息子は、意地悪で私もずいぶんといじめられた。
その子は、大人になって徴兵されて、戦争に行った。
そして、戦死してしまった。
周囲では戦死は名誉なことだというが、元気で村を出て、あっけなく死んでしまうとは、なんとも言えない気持ちだ。

<感じること>
戦死を「悲しかり」と表現するのは、憚れることだったと思う。
また、このように徴集されて、戦死した若者が、この田舎の人の少ない村で一人や二人ではなかったことへの思いも感じられる。

その名さへ忘られし頃
飄然とふるさとに来て
咳をせし男


<短歌から思い浮かぶこと>
 「咳をせし男」は、ふるさとを嫌っていた。自分から「ふるさと」を捨てて、何十年という月日をふるさとへ戻ることはなかった。
 そして、突然にこの男は、姿を見せた。もちろん、喜び勇んで戻ってきた様子はない。また、渋々何かの用のために戻って来たのでもなさそうだ。
 ただ、何事もなかったように、まるで昨日まで、ここにいたかのようにうれしくも悲しくもない表情で現れた。
 しかし、作者は敏感に感じ取った。この男が病か、何かで、弱ってしまい、がまんしきれなくなって懐かしいふるさとへ帰ってきたであろうことを。


大形の被布(ひふ)の模様の赤き花
今も目に見ゆ
六歳(むつ)の日の恋

<思い浮かぶ情景>
 大きな赤い花の模様のコートを着ていた。目立つ色だし、珍しいほど大きな模様だった。そのコートを着ていたあの女性。もちろん、若くはあるが、もう大人の女性だ。
 あの模様と模様の赤い花、今でもはっきりと目に浮かべることができる。そのコートを着ていた女の人のことを。なぜ、それほどはっきりと思い出せるのか。
 あれは、年上の女の人への六歳の私の恋だったといえるのだろう。

我と共に
栗毛の仔馬(こうま)走らせし
母の無き子の盗癖(ぬすみぐせ)かな

<短歌に思うこと>
 少年のころの作者ともう一人の少年が、一頭の栗毛の仔馬に代わる代わる乗り、草原を走らせる。少年二人も仔馬もこの上なく愉快だ。
 故郷での作者の美しい思いでの一場面だ。
 そこで、作品として完結してもよかったのでないかと思う。だが、啄木の場合は、そうはいかない。共に遊んだその子の事情やその子の思いを見過ごすことができない。
 その子「母の無き子」は、素直で活発な子だ。しかし、その子には親がいなく、十分に面倒を見てくれる人もいない。その子は食べるものにさえ不自由することがある。だから、他人の物を盗んででも食べたり着たりしなければならない。そんな生活を続けるうちに、その子には盗癖がついてしまった。
 素直で活発な子に、悪癖がついてしまったのは、どうしてか。作者の思いは、そこまで至っているように感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

うすのろの兄と
不具(かたは)の父もてる三太はかなし
夜も書(ふみ)読む


<私が考えた歌の意味>
知的な障害をもつ兄と身体に障害のある父。
三太の家族はそのような状況にある。
頭脳も身体も健康な三太は、兄や父の面倒をよく見る。
昼間忙しい三太は、夜も寝ずに読書に耽る。
そんな三太の生活を思うと、三太への同情と励ましの気持ちが強まる。

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