万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 『一握の砂』石川啄木「煙」

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふるさとの
かの路傍(みちばた)のすて石よ
今年も草に埋もれしらむ

<私の想像を加えた歌の意味>
ふるさとのある路の路端にわりと大きな石があった。
その石は、転がっているたくさんの石よりも大きいのに何かのためにあるというのではなく、ただそこにあった。
草が生い茂らない時期は、石の姿は見えている。
夏草が生い茂ってくると、その大きな石もすっかり草に埋もれてしまう。
ふるさとを離れていると、あんな石のことまで懐かしくなる。
今年も暑い季節になった。
ふるさとのあの路傍の石は、また草に埋もれているだろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

その昔
小学校の柾屋根(まさやね)に我が投げし鞠(まり)
いかになりけむ

<私の想像を加えた歌の意味>
私が小学生だった頃のことだ。
友達と遊んでいて、私が思いっきり投げたボールが、学校の柾屋根に上がってしまった。
いつもなら、ボールは自然と落ちて来るのに、そのときは、柾にでもひっかかったのか、落ちて来ない。
先生に言うかどうか、友達皆で相談した。
友達は、こんな所でボール遊びをしたことを先生に叱られるだろう、と言う。
友達は、おまえが投げたんだから、おまえ一人で叱られてこい、と言う。
ボールは惜しいが、先生に叱られるのは嫌だった。
結局、私も友達も先生に言いに行かなかった。
屋根に上がったあのボールはいったいどうなったんだろう。
そんな小さなことが妙に気になることがある。

<歌の感想>
 具体的な出来事が描かれているだけに、かえって思い出だけを表現しているとは思えない。柾屋根の小学校は、貧しく停滞した故郷のイメージが湧く。屋根に投げ上げて不明になった「鞠」は、見失い戻ってこない大切なものを描いていると思う。
 故郷は、作者にとって、貧しくて進歩のない世界として描かれている。そして、貧しくて、進歩がない所なのに、そこは、美しく、切ないほど戻りたい世界なのだ。
 繁栄と進歩だけが価値を持つ都会と、変化をきらい伝統をなによりも大切にする村、この両者が常に対比されるように啄木の心中にはあると感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

亡(な)くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る

<私の想像を加えた歌の意味>
昔、先生から地理の本をいただいたことがあった。
その本を私にくださった先生は、すでに亡くなっている。
その地理の本を使うことは、今はない。
だが、その古くなった地理の本を今でも本棚に並べてある。
必要があって読もうというのではないが、時々その本を取り出すことがある。
そこからは、故郷の学生時代のこと、懐かしい先生のことが浮かび上がって来るから。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
三年(みとせ)聴かざり

<歌の感想>
 歌の意味は、短歌表現のそのままだ。こういう作を見ると、啄木を天才歌人だとつくづく感じる。思ったことそのままを五・七・五・七・七にしているように感じる。それでいて、説明的でもなければ、平凡でもない。
 これほど、懐かしく思い出すふるさととは、なんなのだろう。そして、現実的には、そのふるさとに戻り、そこで暮らそうとしないのは、なんなのだろう。
 これは、啄木だけでなく、時代を超えて私たちに問われている課題だ。ふるさとには、限られた仕事しかなくて、若い人々の生活の受け皿がないというだけのことではない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

やまひある獣(けもの)のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

<私が考えた歌の意味>
まるで病気の獣のように誰にでも歯向かっていく。
それが、私の今の精神の状態だ。
そんな私の精神だが、ふるさとのことを聞けば、落ち着き静かになる。

<私の想像を加えた歌の意味>
自分でも自分の心を持て余してしまう。
何にでも苛立ち、誰にでも歯向かって行く。
まるで病気の獣のような私の心が、静まるときがある。
それが、故郷のことを知らされるときだ。
些細なことでも、故郷についての話題を聞くとき、故郷のことを想うとき。
そのことだけが、私の心は静め、穏やかにする。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴きにゆく

<私が考えた歌の意味>
こうやって都会に住んでいると、故郷の方言がなつかしくなる。
駅の人ごみの中には、いろいろな地方から出て来る人々がいる。
その中には、私の故郷から来た人もいるはずだ。
故郷の方言が駅では聴こえてくるはずだ。
故郷の方言を聴きたくて駅に行く。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷が懐かしい。
だが、帰郷しようとは思わない。
戻ったところで、故郷で過ごした時間は戻らない。
駅の人ごみの中では、故郷のなまりが聴こえることがある。
今日はそれを期待して駅に行ってみよう。
故郷は懐かしいが、戻る事はできないし、戻ろうとも思わない。
駅の人ごみの中で、聴こえてくる訛だけで、今の私には十分だ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

糸きれし紙鳶(たこ)のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな

<私の想像を加えた歌の意味>
若いころの心はもうない。
まだ数年しか経っていなのに。
学生時代のことが、故郷でのことが、あの頃の心の瑞々しさが消えてしまった。
まるで、糸の切れたたこのように、どこかに飛んでいってしまった。
若いころの真剣な熱情が、軽い軽いものになってどこかに飛び去ってしまった。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日

<私の想像を加えた歌の意味>
今日も平凡な一日だった。
楽しいことなどない一日が過ぎていく。
なぜ、そんなことを思い出したのか、自分でもわからない。
故郷での学生時代のこと。
わが恋をはじめて友にうち明けた夜のこと。
その夜の友とのやりとりとその時の気持ちを思い出した。
あの頃の気持ちと今とを比べると、あまりにも違う気がする。


そのむかし秀才の名の高かりし
友牢にあり
秋のかぜ吹く

<私の想像を加えた歌の意味>
秋の風を感じる。
空模様も風景も秋の気配だ。
ふと、友のことを思う。
牢に入れられたという友のことを。
なんの罪で牢に入れられたのか詳しくはしらない。
しかし、人を傷つけたり物を盗んだりする友ではなかった。
それどころか、むかしは秀才で有名な友であった。
きっと、罪を犯さざるえない事情があったに違いない。
心が寒くなるような秋風がふく。


夢さめてふつと悲しむ
わが眠り
昔のごとく安からぬかな

<私が考えた歌の意味>
深夜ふっと目が覚めた。
目が冴えて寝付けなくなった。
思うのは悲しいことばかり。
私の眠りは昔は安らかだった。
今は、熟睡できない夜が多くなってしまった。

<歌の感想>
 ただ睡眠のことを表現しているのではあるまい。
 今よりももっと若い頃、故郷にいた頃、その頃も平穏な日々を送っていたのではない。だが、今の暮らしに比べると、昔の方がずっと安らかだったと懐かしんでいる気持ちが伝わってくる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

見よげなる年賀の文(ふみ)を書く人と
おもひ過ぎにき
三年(みとせ)ばかりは

<私の想像を加えた歌の意味>
在学中はそれほど親しい友人ではなかった。
卒業してから、その友人から年賀状をもらった。
その年賀状は工夫されていて、見て楽しかった。
私の方からは、ついつい年賀状も出さずにいたが、その友人からは毎年届いていた。
でも、三年も経つと、その友人からの美しい年賀状も来なくなったしまった。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

人ごみの中をわけ来(く)る
我が友の
昔ながらの太き杖かな

<私の想像を加えた歌の意味>
駅前の雑踏をかき分けるようにしてやって来た。
私の姿を見つけると、友はうれしそうな顔をして、周りの人々の視線など気にしていない。
友は、人ごみの中で、一段と目立っているのに。
故郷で、学生時代の友はいつも太い杖を自慢げについて歩いていた。
その太い杖を、友は、そのまま都会に持ち込んできた。

<歌の感想>
 外見を気にしない田舎者然としたこの友を、作者は恥ずかしく思ってはいる。だが、都会風を装うような人よりは、素朴さを失わない友の心情を歓迎しているように感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

興(きょう)来(きた)れば
友涙垂れ手を揮(ふり)て
酔(ゑ)ひどれの如くなりて語りき


<私が考えた歌の意味>
興がのると、友は涙を流し、手を振り回して語る。
あいつは、酒も飲んでいないのに、まるで酔っ払いのようになって熱弁をふるい続けていた。

<歌の感想>
 友の行動の表現と、比喩が重なり過ぎていて、おもしろみの少ない作と感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

先んじて恋のあまさと
かなしさ知りし我なり
先んじて老ゆ

<私が考えた歌の意味>
同じ年齢の若者より早く恋を経験した。
恋のあまさとかなしさを人より早く知った私だった。
そんな早熟な私だから、老成するのも早いのだ。

<歌の感想>
 理屈が前面に出ていて、感心できない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わがこころ
けふもひそかに泣かむとす
友みな己(おの)が道をあゆめり

<私の想像を加えた歌の意味>
かなしさに浸り、時を過ごす。
ひそかに、独りで、自分の心を見つめる。
私の心は、今日も泣こうとしている。
友はみんなそれぞれの道を歩んで行った。
私だけが、心の底のかなしみを見つめている。

<歌の感想>
 啄木の「泣かむとす」は、自己の文学創作につながる表現だと感じる。学校での学業に打ち込めなくなり、文学へと歩み出そうとしている時期を描いていると感じる。そして、この時期は、友人皆と自分を比べ、コンプレックスと呼べそうな感情を持っていると思う。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

眼を病みて黒き眼鏡をかけし時
その頃よ
一人泣くをおぼえし

<私が考えた歌の意味>
眼病を患って、日を遮る黒いレンズの眼鏡をかけた。
ちょうどその頃からだ。
孤独感に涙する経験をするようになったのは。

<私の想像を加えた歌の意味>
目を病んで、黒いレンズの眼鏡をかけなければならなかった。
黒いレンズの眼鏡をかけると、世の中のものが全て、くすんだ色に見えた。
ちょうどその頃からだ。
私が独りで泣くようになったのは。
悲しい出来事があったからではない。
理由のないかなしみが押し寄せて来て、泣くより他になくなるのだ。
その頃から、独りでかなしみに浸ることが私の習いとなった。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

茨島(ばらじま)の松のなみ木の街道を
我とゆきし少女(をとめ)
やすく暮らせり

<私の想像を加えた歌の意味>
茨島(ばらじま)の松のなみ木の街道をあの少女と歩いた。
どちらが誘ったと言うのでなく、互いに惹かれ合ったのだった。
人目を気にせずに、私と二人連れで歩くような少女だった。
だが、いつの間にか疎遠になっていった。
今は、家庭に入り、平穏に暮らしていると聞く。
私とともに歩いた少女は思い出の中だけにいる。

<歌の感想>
 若い頃の恋心の思い出と言えよう。それなのに、感傷的な気分は詠まれていない。思い出に浸ることなく、現在と過去を行き来している作者を感じる。

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