万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 『一握の砂』石川啄木「煙」

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

よく叱る師ありき
髭(ひげ)の似たるより山羊(やぎ)と名づけて
口真似もしき


<私が考えた歌の意味>
しょっちゅう叱る先生がいた。
その先生の髭は山羊の髭みたいだったので、あだ名を「山羊」とつけた。
その先生の口真似なんかもした。

<歌の感想>
 よくある学生時代の話題だ。表現も素直だ。この「師」のことを懐かしむ気持ちは表現にはない。それなのに、この先生を思い出すと笑いがもれるといった感情が伝わって来る。その笑いは嘲笑などではない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

夜寝ても口ぶえ吹きぬ
口ぶえは
十五のわれの歌にしありけり


<私の想像を加えた歌の意味>
学校の成績は良かったのに、ある時から勉強に興味がなくなった。
友達が夢中になっている遊びにも加わりたくなかった。
あの頃、やっていて楽しかったのは、一人で口ぶえを吹くことだった。
夜、寝ていても、気が向くと口ぶえを吹いていた。
おかげで、口ぶえのことでよく叱られた。
それでも、十五歳の私には、口ぶえは自分の気持ちを発散できる唯一のものだった。
あの頃は、口ぶえが私の歌だったのだ。

<歌の感想>
 少年の頃の思い出を詠んでいるだけのようなこの短歌にも、啄木の特徴が出ていると感じる。
 いつも表現せずにはいられない何かが心の内にある。そして、その心と行為との繋がり具合が独特だ。心情と行為が不釣り合いなようなのだが、どこかでしっかりと均衡を保っている。啄木の短歌にはそのような特徴があると思う。
 この作も、少年が寝ながらふく口ぶえと少年にとっての「歌」とは、繋がらないようで、繋がっているのだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

晴れし空仰げばいつも
口笛を吹きたくなりて
吹きて遊びき

<私が考えた歌の意味>
晴れた空を見上げると、いつも口笛を吹きたくなる。
口笛を吹きたくなると、どこでも口笛を吹いて遊んだものだ。

<歌の感想>
 晴れた空を仰ぎ見ると口笛を吹きたくなるという気持ちは、多くの人が持つだろう。でも、それが教室の中や、町の中を歩いている時や、友達や家族と一緒にいる時などであれば、いきなり口笛を吹くことはしないだろう。
 周囲に気兼ねすることなく、自己の気持ちのままに行動した少年時代の作者を想像できる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

かなしみと言はば言ふべき
物の味
われの嘗めしは余りに早かり

<私が考えた歌の意味>
「かなしみ」と言えば言えるのであろう。
その感情を、初めて持った時を覚えている。
私が、「かなしみ」を感じたのは余りにも幼い時のことだった。

<歌の感想>
 赤ん坊がいくら泣き叫んでも、それは悲しいできごとにあったからではない。幼児が泣き続けたからといって、それはかなしみで心が痛むのではない。
 人は、幼少期を終え、自立できるようになり、経験を積み、その成長に伴って、うれしさやかなしさを自覚できるようになっていくものだ。
 そう考えると、幼くして「かなしみ」を味わうというのは、啄木でなければ経験しないことと受け取れる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

不来方(こずかた)のお城のあとの草に臥(ね)て
空に吸はれし
十五の心

<私が考えた歌の意味>
過ぎてしまったあの頃のこと、お城あとの草に寝ころんでいた。
空を見上げていると、その空に吸い込まれてしまった。
私の十五歳の心が。

<歌の感想>
 懐かしさとは違う感覚だ。十五の頃が幸福だったというのとも違う。あの頃は疲労感や倦怠感に汚れてはいなかったという思いに浸っている啄木を感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城跡に寝にゆきしかな


<私の想像を加えた歌の意味>
もう講義を受けているのが嫌になった。
授業が退屈なのはいつものことだが。
今日は我慢ができないほどだ。
あの教師は追いかけて来はしまい。
窓から外へ出る。
生徒の皆は気づいているが、ただにやにやと傍観している。
どこへ行くという当てもない。
一人になりたかっただけだ。
あの城跡へ行こう。
城跡へ行って、草原で寝て来よう。
故郷の学生時代には、そんなこともあった。

<歌の感想>
 実に巧みな短歌だ。技巧も気負いもなく、三行にぴたりと収まっている。学校の退屈さと、作者の若々しい生命力と無鉄砲さが描かれている。それも、回想なので、より落ち着いて味わえるのであろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

師も友も知らで責めにき
謎に似る
わが学業のおこたりの因(もと)

<私の想像を加えた歌の意味>
先生も友達も私のことを責めた。
なぜ、学業を怠けるようになったのかと。
私自身にも、学業が嫌になった原因は謎であった。

<歌の感想>
 現代に当てはまる現象を詠んでいると思う。学校での勉強が嫌になるということはそこに楽しさや必要性を感じなくなるからだ。
 学業は、元々おもしろおかしいだけのものではないということも正しい。忍耐努力して学業に励んで、報われることがあるなら、それは耐えられる。しかし、我慢して行っても、それが報われないなら、忍耐は忍耐でしかない。
 そのことを、啄木は見抜いていると感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ほとばしるポンプの水の
心地よさよ
しばしは若きこころもて見る

※原文では、「ポンプ」は漢字表記。

<私が考えた歌の意味>
ポンプが勢いよく水を吐き出している。
ほとばしる水の勢いを見て、その音を聞くと、気持ちがいい。
しばらくの間、ポンプのほとばしる水を、若い頃に戻った気持ちで見ていた。

<歌の感想>
 短歌で、近代的な事物を描き出しているのは啄木の特徴と言えるのではないか。この作を読み、次の作と共通する感覚を感じた。
ダイナモの
重き唸(うなり)のここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし
記事 ダイナモの重き唸りの

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

<私の想像を加えた歌の意味>
もくもくと白い煙が青空に上がっていく。
建物から勢いよく吐き出された煙だが、青空に消えて見えなくなる。
空に吸い込まれるように消えていく。
明るい青空にさびしさだけが残る。
青空にさびしく消えてしまった煙は、まるで私のようだ。

<歌の感想>
 青空にぽっかりと浮かぶ白い雲ではない。煙突からの煙であろうか、とにかく何かが燃えて出る煙だ。
 吐き出されたばかりの煙ではない。最初は勢いがよいが、空にだんだん消えてゆく煙の様子なのだ。
 煙が昇り立つ様子に目を奪われることはある。その煙が消えてゆくまで見続けることはないように思う。まして、消えてゆく煙と自己が似ていると感じる感性は、凡人にはない。啄木独特のものだ。
 青空と煙に、さびしさを描いているこの作が好きだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

己(おの)が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術(すべ)なし

<私が考えた歌の意味>
自分の名前を、小さく声に出してみる。
それだけで、涙が落ちる。
そんな多感な十四歳の自分にかえることはもうできない。

<歌の感想>
 十四歳の頃を思い出し、あの頃にはもう戻れないと感じることは多くの人にあると思う。
 この短歌の特徴は、若い頃を懐かしむというよりは、その十四歳の頃の思い出の描き方にある。理由や背景には触れずに、自分の名前を呼ぶという行為が描かれる。そして、その行為に「涙せし」がつながる。自分の名前を呼び、それだけのことに泣く、この感覚がなぜか伝わってくる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

病(やまひ)のごと
思郷(しきやう)のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも


<私の想像を加えた歌の意味>
故郷を懐かしく思う気持ちが、まるで病気に罹ったように湧いてくる。
そういう日、見上げた青空に煙がたなびいていた。
普段は思い出すこともない故郷が無性に恋しくなる日は、青空の煙さえ悲しく見える。

<歌の感想>
 思郷、望郷の心が、「あをぞらの煙」を悲しいものにするというところが、いかにも啄木の個性だ。望郷の心を、懐かしさに結びつけない感覚が好きだ。

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