万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 現代の短歌 感想

朝日新聞夕刊2017/3/22 あるきだす言葉たち 春の棘 松岡 秀明(まつおか ひであき)

クリニックの診察室に四季はない生花(せいか)と患者の服装以外

 患者は、病気を治したくて医師の所へ行く。病気の症状の重い時は、一刻も早く病院へ行きたい。治療のおかげで病が癒えると、今度は一刻も早く病院を出たい。
 患者は、クリニックの診察室に季節感を期待しない。しかし、医師や看護師は、そこが仕事場である。一日の大半をそこで過ごしている。わずかでも、季節を感じられる方が治療する方にも、治療を受ける方にも大切なことだと思う。


早春のなかに一本棘はあり 人差し指をしずかにのばす
 
 緊張してこわばったようになっていた指に気づいて、体を緩めるようにその指をのばす、そんな動作をイメージした。
 早春は、これからの明るく生き生きとした時間を期待する季節だ。だが、そういう早春の日々にも、冷たい風も吹けば、冬に戻ったかのような日もある。明るく穏やかな気持ちではあるが、心のどこかに引っかかる「一本棘」を感じている、そんな心象を描いていると思う。
 幸福に満ちた時間は、どこか疑わしい。医学は、病気の克服が目標だが、常に死と向き合っている。成長と回復を望むが、成長も回復も限りがある。そういうことを、考えさせる短歌だ。

朝日新聞夕刊2017/3/22 あるきだす言葉たち 春の棘 松岡 秀明(まつおか ひであき)

少しだけ心を病んだ少年に雲の名前をふたつ教わる

カステラのザラメの粒が外来の空いた時間に読点をうつ

<歌の感想>
 二首ともに日常の出来事が切り取られている。特に「カステラの」の一首は、似たような時間は他の日にもあるのだろう。それでいながら、口の中に残る「ザラメの粒」を感じながら、気持ちを切り換えて次の患者に向かうこの日の瞬間は、この時だけのものと感じる。
 「少しだけ」の歌からは、「少年」の話を丁寧に聴いている様子が伝わってくる。医師は患者の病を診るのだが、同時に、患者その人をも見なければならないのだろう。作者は、それを行っていると感じる。
 日常を表現した作に、これだけ美しさがあるということから、日々を見つめる眼の確かさを感じる。

朝日新聞夕刊2017/3/22 あるきだす言葉たち 春の棘 松岡 秀明(まつおか ひであき) 

ここかしこ光さざめく春となり懐中時計の手触りは冴え

<歌の感想>
 懐中時計を持ったことはないが、腕時計のメタルのバンドやボールペンの金属の軸をいつもより冷たく感じることがある。この短歌の場合も、懐中時計そのものではなく、作者の感覚の変化を感じる。あたたかさや明るさを満喫するだけが春の味わいではない。新たな生命、新しい試み、そのような春の季節感が表現されている。

黄水仙五輪を活ける わたくしと患者の緩衝材(バッファー)として

<歌の感想>
 いくつかの病気が見つかってからは、私が一番多く会う外部の人は、診てもらっている各科の医師だ。普段は、患者の立場でしか、医師を見ていなかったので、こういう短歌は興味深い。
 医師の一言で患者は、安心もすれば、落胆もする。場合によっては、余命宣告もある。そうでありながら、一人の患者が医師と話す時間は秒単位になるのが現実だ。しかも、たいていの診察室は、狭く殺風景だ。
 患者としても、医師との間に緩衝材は欲しい。しかし、一人の医師が一日に何十人もの患者を診なければならないのだから、緩衝材が必要なのは医師の方なのだと思う。医師不足が叫ばれる今、患者の方も医師の激務を思う気持ちを忘れないでおこう。

朝日新聞夕刊2017/3/1 あるきだす言葉たち 春の流星 杉谷 麻衣(すぎたに まい)

身のうちに心臓(こころ)のふたつあることを知らされてなお遠いあさやけ

 この一首だけでは、どんなことを詠んでいるのか、わからなかった。

産院のいりぐちに待つ靴がみなわれを向きたり春花の顔で

生まれても産まれぬいのちのあることも奇跡でしょうか花冷えの風

 この二首を読んで、歌の意味が私にも伝わってきた。
 文字の効果を感じさせられる。
 「心臓」は、心臓に間違いないのだが、作者にとっては、「こころ」なのだと感じる。
 いのちが「生まれ」た。だが、「産まれぬ」いのちも「ある」。作者にとって、このことは、「奇跡でしょうか」という問いかけでしか表せない心情なのであろう。
 この三首の短歌に表現されている経験と心情を、追体験することは私には不可能だ。だが、作者が感じているものを受け取ることはできる。
 短歌という形式は昔のままだが、内容は極めて現代だと感じた。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

水仙は八頭身の少女にて風の日の丘にひとり咲きたり

<感想>
 春を感じるとはいえ、まだ外の風は寒い。身をすくめながら、ふっと見上げると、見上げた先に水仙の花が見える。あのすっきりと伸びている水仙をどう表そうか、作者は思ったことだろう。
 「八頭身の少女」が効いている。「八頭身」も「少女」も歌語でもなければ、新しい感覚の語でもない。それなのに、画像では表現しきれないまでに、水仙の咲く姿を描いている。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

氷点下十五度の街に住む息子凍ったのだろうメールも返らず

<感想>
 息子の勤務地か、学校の所在地が寒い地方なのだろう。海外かもしれない。心配でたまらないというよりも、ちっとも便りを寄こさないことに、少々腹を立てている。「息子凍ったのだろう」がなんともよい。
 作者の気持ちに共感できる。さらに、心配はしているが母親の感情を押し付けない、そんな親の在り方も感じ取れる。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

きさらぎの空はどこかが破れいて照りながらふる雪のかそけさ

<感想>
 まさに、昨日今日の空模様だ。ただし、私の住むのは雪国なので、如月の雪はまだかそけしとはいかない。
 表現にはないが、過疎地の風景でも山中の気象でもないと感じる。ビルの狭間から空を見上げる作者を想像する。古語をつかいながら、現代の風景を感じさせるのは、「空はどこかが破れいて照りながらふる」の効果であろう。
 さらに、「きさらぎ」「かそけさ」は優美さを狙っただけではないと思う。今降る雪は平成の街の雪だが、作者がとらえているのは、昔の歌人の眼に映った雪にもつながるという感覚を導き出している。
 短歌という形式と日本語が、時代の積み重ねの中でさらに進化するものであってほしい。

朝日新聞夕刊2017/1/18 模索の果て 萩原 慎一郎 

遅刻せぬよう走るのだ 鬣(たてがみ)をなびかせ走る馬のごとくに

<感想>
 作者は1984年生まれとあった。こういう年齢の人の感情がこんなに素直に伝わってくることが珍しい。真面目で不器用そうだ。真面目は、今は美徳でも長所でもない。でも、こういう若い人が好きだ。
 走れ、走れ、「鬣」をなびかせるて走るのはカッコいいぞ。そして、もし遅刻したら、言い訳せずに謝れ。
 こういう気持ちの人と、じっくりと話してみたい。

朝日新聞夕刊2017/2/8 二月の言葉 広坂 早苗

屋上に雪の聖岳(ひじり)を見て戻る午後の事務所(オフィス)の小さき業務に

<感想>
 作者とともにふっと心を緩ませることができた。
 近くの数字ばかりを見続けていた目を遠くの雪山にやる。ビルの屋上から望める聖岳は、別世界のようだ。でも、もう午後の仕事に戻らなければならない。それもさしておもしろくも生産的でもない業務だ。でも、やり終えよう。そんな気持ちで、屋上からの階段を下りる作者が浮かんでくる。
 オフィスの机の上の書類と雪の聖岳、その対照的な光景が屋上で転換し連続する。
 「小さき業務」だけに縛られない作者の心が素敵だ。

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