万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 現代の短歌 感想

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

たぶん来る明日の方へゆつくりとペダルの上の雨を踏み込む

 将来への展望の感じられない現状を描いているのに、この一連の短歌は前に進もうとする気持ちを感じる。それを、この作からはっきりと感じる。
 明日が来ることさえ、確信がもてない。だけど、「たぶん来る」とどこかで楽観している。そして、雨と自転車と自分の行為を、情感として表現している。この抒情が作者の強みなのだと思う。

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

ひとつづつ昔の傷をうづかせて入社と退社をあまた記せり

 私は、この短歌で表現されていることが気になっていた。どうして最近はこうなったんだ!と思う。
 それは、就職、就労、つまりは働き方が非常に不安定なものになってしまったことだ。
 この短歌は、そのただなかに生きている人の思いが描かれている。
 
 雇用する側にとっても、雇用される側にとっても、労働力の需要と供給に応じるには、現代の就労形態が都合がよいのであろう。今は、過去の安定感のある終身雇用の形態はまったくあわないのだ。 
 そうなると、一人の人が入社と退社を繰り返すのは当たり前のことになる。
 「入社と退社をあまた」して、より高い収入を得て労働意欲を高める人もいるであろう。
 現代の労働環境が、作者のように「昔の傷をうづかせる」ことにつながる人もいるであろう。
 職を変えることによって、「傷」を増やしていく作者のような人が増えている、と私は感じる。終身雇用でなくても、安定感のある働き方はあるはずだと思いたいのだが‥‥

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

三冊の求人情報誌を広げ見たことのある未来を選ぶ

 自分が過去の人間である、と感じてしまう。私は、学生時代を含めて「求人情報誌」を見たことがない。また、社会へ出てからは、転職をしたこともない。これはもう現代に生きているとはいえないのかもしれない。
 それともそんなことはないのか?

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

さびしさのひきおこしたる症状がつぎつぎあふれだす月の夜

 歌われている題材は、平凡だ。表現方法が現代だ。時代が違えば、「症状」は病気の場合に使われる言葉だった。今は、このように使われてもスッと理解できる。
 言葉の変化なのか?それとも、現代は「さびしさ」も病気ととらえられているのか?

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

平日の街をゆき交ふ人たちの健全な目に射られてあせる

 平日の街は、働く人たちであふれている。まるで、自分だけが仕事を持たない人のようだ。
 忙しく動く街の活気、それに比べて、自分だけ時間を持て余している。それを、知っているかのように働いている人たちが、仕事のない私を見つめてくる。
 周囲から取り残されたような感覚にとらわれている作者が描かれている。
 ただ、「健全な目に」の句が気になる。これは、忙しそうに働いている人たちの目を「健全」と表現しているのだが、忙しく働いている人が健全なのだろうか。
 作者自身が、街の人たちからまるで非難されているように感じているのは伝わるが、忙しく働いている人たちの目を健全と括ってしまえるものだろうか。さらに、作者自身が、街を忙し気に歩いている人たちの目を、「健全な目」と感じているとは思えない。
 社会では、働き口のある人を健全な人と規定していると、作者は言いたかったのかもしれない。

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

ゆき先を決めずバイトを辞めたれば世界は朝から晩まで樹海

 私は、次の働き口を決めずにそれまでの仕事を辞めたことがない。それは、私だけではなく、過去の世間の常識だった。今は、その常識が通用しなくなっていることに最近になって気づいた。
 では、次の収入源も定かでないのに、今の仕事を辞めることは普通のことになったのか。
 そうではあるまい。現在だって、生計の目途が立たないのに仕事を辞めるのは、不利であり、不安なことであろう。
 バイトを辞める理由のひとつに、バイト先の人間関係がいやだ、が考えられる。仕事先の人間関係は、仕事の内容と勤務条件が密接にかかわってくると思う。過去の職場の人間関係づくりは、過去の職場の勤務内容と勤務条件の上に成り立っていた。
 たとえば、飲食店の店員という業務にしても過去と現在とでは大きく違う。過去は、個人の店主とその家族がその店には常時いて、そこにアルバイト店員が入るという形態だった。現在は、期限付き雇用の店長と完全なシフト制のアルバイト店員という形態が多い。これだけ、勤務条件が違うと、過去のようには職場の人間関係も成立しない。
 バイト先を辞めるその他の理由についても、同様のことがいえると思う。

 バイト先を辞め、次の仕事が見つからないからといって、悲観するのでも困窮するのでもない。
 だからといって、気楽になんとかなるさ、と思う気持ちにもなれない。
 まさに、「朝から晩まで樹海」をさ迷うような深い不安の中に放り出されている作者を感じる。

朝日新聞夕刊2017/6/21 あるきだす言葉たち 英雄 小島 一記(こじま かずき)

たまきわるAI独裁政権下ノートに物を書く罪あらん

 AIが社会の機構の隅々にまで浸透し、まるで独裁政権のように全ての意思決定をするようになれば、個人が個の考えを表現することさえも禁止されるようになるかもしれない、という作者の恐れが描かれている。
 これは、今、注目を集めている話題ではあるが、この作品で表現されていることは斬新な発想ではないと思う。
 発想や思考の新しさというよりは、表現方法の新しさが際立っている。「AI独裁政権下」という最新の事象に「たまきわる」という枕詞を冠している。さらに、上の句の重々しい感じに比べ、下の句には平易な言葉が使われている。この二つの対比が、AIを短歌で表現することを可能にしたのだと感じる。
 
 AIを支配の手段や隠れ蓑にして、大衆をコントロールしようとする独裁政権の出現こそ、警戒しなければならない。

朝日新聞夕刊2017/6/21 あるきだす言葉たち 英雄 小島 一記(こじま かずき)

ふるさとに古戦場あり十代の信長が攻めし松葉城跡

 「ふるさと」「古戦場」「松葉城跡」の語句を見ると、故郷を懐かしむ平凡な感じしか思い浮かばない。しかし、この作品はなぜか現代のものになっている。
 初句、第二句は事実を示し、そこに作者の感情は出てきていない。第三句の「十代の信長が」が一首全体を支配していると思う。若くして破格の統率力を示した歴史上の人物への思いが凝縮されている。
 この句によって、作者の信長への思いが伝わってくる。だからこそ、ふるさとの松葉城跡に感慨が湧くのであろう。
 さらに、作者の信長像にも特徴があると受け取れる。歴史的に検証された信長像ではあるまい。また、今までの歴史小説に描かれてきた信長でもないであろう。それは、次の作品に表れている。

英雄と縁あるような時めきは少年の日の地元の史跡

 
時代性を超越した能力と実行力を有する「英雄」に対する作者の強い憧れを感じる。
 「地元の史跡」は、信長についての史跡の中では重要視されないものであろう。信長の城でも、信長が長く留まった場所でもない。だが、ほんの少しでも信長に縁があれば、作者にとっては大切なものに感じられたことが伝わってくる。
 歴史的な事実は変わらないが、歴史上の人物をどうとらえるかは、時代によって変化する。
 作者は、戦国時代の傑出した武将として信長をとらえているだけではないと思う。当時の価値観を覆し、戦術や政治だけでなく文化面においても時代を超越した感覚をもった「英雄」として信長をとらえていると感じる。

朝日新聞夕刊2017/6/21 あるきだす言葉たち 英雄 小島 一記(こじま かずき)

青色の淡きフォントで議事録に敵失ひとつ加筆しておく

 議事録というからには、自分用のメモなどではないのだろう。少なくとも論戦の一方の側では、共有される文書だと思う。そこに、目立たないように相手側の失言を加筆した。
 赤で付け加えれば、あからさま過ぎる。でも、記録には残しておきたい。そこで、「青色の淡きフォント」ということになる。デジタルの文書であれば、色とフォントとサイズは自在だ。

朝日新聞夕刊2017/6/21 あるきだす言葉たち 英雄 小島 一記(こじま かずき)

煤(すす)けたる根雪のように積み上げてホチキスの針を資料から抜く

 自分の意見を何も書かなくても、ページ数が多く見かけの立派そうな会議資料を作ることができる。結局は、役に立たず、真剣に読まれることもない資料は、積み上げられただけで処分される。
 紙はシュレッダーにかければいいが、ホチキスの針は邪魔だ。

朝日新聞夕刊2017/6/21 あるきだす言葉たち 英雄 小島 一記(こじま かずき)

誤りてメールソフトの立ち上がるつかの間青葉闇のため息

 「パソコン」「スマホ」と短縮した言い方は嫌いだ。短縮しないで書くと、次のようになる。
 パーソナルコンピューターかスマートフォンを使っている。今はそのつもりがなかったのに、電子メールソフトウェアーを立ち上げる操作をしてしまった。何秒かではあるが、ソフトウェアーが立ち上がるのを待ち、それを終了させなければならない。窓の外に目をやるとそこは青葉闇。物理的な時間の長さではなく、感覚的な時間の長さを感じて、ため息が出る。
 この短歌から思い浮かぶ情景は、上に書いた通りだ。だが、いくつかの語を短縮しないで略さないで書くと、それこそ「ため息」が出そうだ。今は、言葉も略さないと伝わりづらくなる場合もある。そんな現代の時間を感じる。

朝日新聞夕刊2017/5/31 あるきだす言葉たち 半袖の人長袖の人  小林 真代(こばやし まさよ)

昨夜の雨に湿つた町ですれちがふ半袖のひと長袖のひと

 七七五七七の音数なので、こんなに情景がすんなりと浮かぶのだろうか。
 例えば、無理に上の句を五七五にしてみると、当然ながら全く別の味わいになる。
昨夜降る雨に湿りし町であう半袖のひと長袖のひと
昨晩の雨に湿りし町を行く半袖のひと長袖のひと 

 
「湿つた町ですれちがふ」という散文的な表現が、効果を上げていると思う。このリズムと表現法がいかにも、今の町の風景を描いていると感じる。
 余計なことだが、最近の町の中は、老人の割合が多い。行き交う人々の年代差が大きいと、歩く速度も着ているものもその差が大きい。

朝日新聞夕刊2017/5/31 あるきだす言葉たち 半袖の人長袖の人  小林 真代(こばやし まさよ)

震災復興還元セールとは言へど賑はふでもなし町の電器屋

 定型を崩したかに見えると、旧仮名遣いや文語を用いて、短歌の定型リズムを取り戻す。
 客観的な描写に終始していそうで、作者の主観がしっかりと込められている。

除染士のその後を言ひつつくさめしてひきつるやうに誰か笑ひぬ

 
東日本大震災を伝える文章や詩を読んだ。そのそれぞれに、考えさせられるものがある。
 震災後のことと、復興の取り組みを伝える文章や詩を読んだ。理由はよく分からないが、震災後のことは、なかなか伝わってこないように思う。
 この二首は、私のそういう思いにこたえてくれている。セールやイベントは大切であろう。肝心なのは、セールやイベントの後である。そして、元の地域に戻って必要なのは、新しい町づくりや新しい働き場所と同時に新しくない普通の電器屋が以前のようにある町なのだと思う。

 除染の作業に携わる人たちが、その地域に住んでいる、あるいは戻ろうとしている人たちにどんな受け取り方をされているかの一端を感じることができる。
 地震と津波の被害と、原発による被害の違いをはっきりと弁別したい。この短歌は、除染が必要となった被害の原因を突き付けてくる。
 また、自然災害と人為災害の相乗被害を乗り越えるには、長い時間をかける取り組みとそれに伴う生活がいるのだと思わせられる。

朝日新聞夕刊2017/5/31 あるきだす言葉たち 半袖の人長袖の人  小林 真代(こばやし まさよ)         

芍薬(しゃくやく)は大きく咲いて重く垂れどうすることもできぬ花時

 
短歌の創り方などというハウツウの立場からは、「大きく咲いて重く垂れ」などは、表現が重なっていてもったいないとでもいわれそうだ。
 あの立派で強い色の芍薬の満開の様は、こうとでも表現しなければ伝わってこない。花はどんな花でも咲き誇っている様子は、どこかけだるくこっけいなところがある。写真や絵画でも、その枯れていくことを予感させるような満開の花の表現にはなかなか出あわない。
 どうして、こんなに普通の語句「どうすることもできぬ」で、非の打ちどころなく咲いている芍薬の花の一瞬を表現できるのだろう。不思議だ。うまいとか独特の感性とか、そういうものではなく、作者のユーモアを感じ、共感してしまう。

朝日新聞夕刊2017/5/31 あるきだす言葉たち 半袖の人長袖の人  小林 真代(こばやし まさよ)         

そら豆のさやを剥(む)きつつ居間のテレビつければどつと夏場所である

 
なんとも滑らかな調べだ。短歌らしい言い回しがない。「どつと」と「夏場所である」がすてきだ。テーマは、季節の到来だと思う。短歌の永遠の題材だ。そして、今の季節感を描くことに成功している。

お湯の沸く音をしづかに待つ耳が勝負あったの声に驚く

 
やかんでお湯を沸かすときは、ピーやかんを使っていた。分かりやすいし、離れた場所にいても気づく。でも、けっこううるさいし、注ぐときは注ぎ口の笛を開けなければならない。毎日使っていると、沸騰までの時間と音の変化が分かるようになった。沸騰の間際が音が大きい。沸騰が始まると、音は変わり、小さくなる。
 水が沸騰するまでの音の変化、混じり合うキッチンの音とテレビの音、暮らしの音が伝わってくる。

朝日新聞夕刊2017/3/22 あるきだす言葉たち 春の棘 松岡 秀明(まつおか ひであき)

クリニックの診察室に四季はない生花(せいか)と患者の服装以外

 患者は、病気を治したくて医師の所へ行く。病気の症状の重い時は、一刻も早く病院へ行きたい。治療のおかげで病が癒えると、今度は一刻も早く病院を出たい。
 患者は、クリニックの診察室に季節感を期待しない。しかし、医師や看護師は、そこが仕事場である。一日の大半をそこで過ごしている。わずかでも、季節を感じられる方が治療する方にも、治療を受ける方にも大切なことだと思う。


早春のなかに一本棘はあり 人差し指をしずかにのばす
 
 緊張してこわばったようになっていた指に気づいて、体を緩めるようにその指をのばす、そんな動作をイメージした。
 早春は、これからの明るく生き生きとした時間を期待する季節だ。だが、そういう早春の日々にも、冷たい風も吹けば、冬に戻ったかのような日もある。明るく穏やかな気持ちではあるが、心のどこかに引っかかる「一本棘」を感じている、そんな心象を描いていると思う。
 幸福に満ちた時間は、どこか疑わしい。医学は、病気の克服が目標だが、常に死と向き合っている。成長と回復を望むが、成長も回復も限りがある。そういうことを、考えさせる短歌だ。

朝日新聞夕刊2017/3/22 あるきだす言葉たち 春の棘 松岡 秀明(まつおか ひであき)

少しだけ心を病んだ少年に雲の名前をふたつ教わる

カステラのザラメの粒が外来の空いた時間に読点をうつ

<歌の感想>
 二首ともに日常の出来事が切り取られている。特に「カステラの」の一首は、似たような時間は他の日にもあるのだろう。それでいながら、口の中に残る「ザラメの粒」を感じながら、気持ちを切り換えて次の患者に向かうこの日の瞬間は、この時だけのものと感じる。
 「少しだけ」の歌からは、「少年」の話を丁寧に聴いている様子が伝わってくる。医師は患者の病を診るのだが、同時に、患者その人をも見なければならないのだろう。作者は、それを行っていると感じる。
 日常を表現した作に、これだけ美しさがあるということから、日々を見つめる眼の確かさを感じる。

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