万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 歌集『一握の砂』の感想

 『一握の砂』の冒頭の短歌は、有名だ。


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる


 啄木がどのように短歌を作ったかはわからないが、①は、相当に工夫を重ねた作だと思う。また、読む人を意識した短歌だと思う。
 次の短歌②は、作歌の時期や動機、また心情に①の作と重なるものがあると思う。それでいながら、なんとなく、すんなりと自分の行為を作品化していると感じる。


大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

 
世間に注目されるような短歌を創作したいという意識は、歌人には常にあるはずだ。そして、それに成功したのが①の作であろう。
 ②の方は、描かれている心情は深刻だが、リズムは散文的で下二句は、行為そのままを表現している。
 こう比較すると、①の方が、イメージが広がり、人気は高いであろう。
 私は、②も好きだ。作者は、一人で砂浜に来て、また一人で町へと戻って行く。誰からも理解されない悲しみを、一人で抱き、また現実に戻って行く啄木の姿が浮かび上がって来る。
 それほど注目されない作品にも、啄木の世界を強く感じさせるものがある。


たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず


親と子と
はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
気まづきや何(な)ぞ

 
親子の関係は、時代の思潮に影響を受ける。だが、いつの時代も子の年齢が高くなれば、子が幼児の時のような一体感はなくなる。この二首は、子である作者は成人し、親は老人となっている。
 そうなると、②の短歌は、誰でもが経験する親子間を巧みに表現している。
 では、①はどうかというと、これもまた、親の老齢を実感した人にはおおいに共感できる感情だ。
 この二首の違いは、①が作者の心情を、作者の行動で表現している点だと思う。「泣きて」「三歩あゆまず」は、現実の体験としては受け入れがたい。親の老いに驚き、悲しく思った心情を詩の言葉として完成させていると感じる。
 ①は、よく知られた作品だが、②も味わい深い。


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる


いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに

 この二首は、同じ場所同じ時期の作だと思う。
 ①は、推敲を加え工夫もされていると感じるし、歌の調子が際立って美しい。②は、作者の行為がそのまま短歌になっている。
 私は、②の方が好きだ。世間の煩わしさから離れ、悲しみに耐え、孤独に浸る作者の心情は②の方が直接に伝わってくる。

 『一握の砂』は、次の五章に分かれている。
「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人々」「手套を脱ぐ時」

 この五章の内の「我を愛する歌」を読み終えた。今までは、『一握の砂』の有名な数首を知っているだけだった。一つ目の章だけでも、全部の短歌を読むと、この歌集について今まで持っていた印象が変わってくる。

 次の二首を比較してみた。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
<私の想像を加えた歌の意味>
なぜだろうか。
友人が皆、私よりも優れていると思わされる日があった。
普段は、そういうことはしないのに、花を買って帰った。
妻と花を眺め、静かに過ごした。
私は、友達の誰よりも才能も能力ないと感じる日に。

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋の夜具のこころよきかな
<私の想像を加えた歌の意味>
以前から一人になって泣きたかった。
思い切って、そのためにだけ旅に出た。
どうということもない安宿に泊まった。
夜具もごく普通のものだった。
布団に入ると、誰も部屋に来る気遣いもなく、独りになれた気がする。


 妻とのささやかな暮らしに幸福を感じている作者がいる。一方で、家族に縛られたくない作者がいる。よく知られた「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」を読むと、睦ましく妻と過ごすことによって、世間の競争から逃れることができた境地が伝わってくる。
 一方では、「ただひとり泣かまほしさに来て寝たる宿屋の夜具のこころよきかな」にあるように、妻と一緒にいる家庭も、安らげる場ではなかった境地も伝わってくる。
 一人の中に矛盾するものを持っているのが、人間だと思う。そして、その相容れない気持ちの双方が表現されていると感じる。

A    
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

B    
大海にむかひて一人
七八日
泣きなむとすと家を出でにき

C    
わが泣くを少女等きかば
病犬の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

D    

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋の夜具のこころよきかな


 「泣く」という語の入った作品を四首並べてみた。意外にも、実際に泣いている行為が描かれているのはAだけである。BとDは、泣きたいという気持ちを描いている。Cの「泣く」は、もしも泣いている私を見たならということだ。
 そう考えると、Aも作中の行為としては、「蟹とたはむる」の方に重点があると受け取れる。
 啄木の短歌では、「泣く」は、悲しみを感じ声を出して涙を流す行為としての「泣く」とは違うものを表していそうな気がしてきた。悲しみに浸る、悲しみの底に沈む、悲しさという感情に身を任せる、散文にするなら、このような心境なのであろうか。
 そして、啄木は、悲しみの底に沈んでいる自己を、繰り返し短歌の題材にしている。啄木は、「泣く」ことを欲しているとさえ感じる。

 次の二首を比べると、作者の心の状態の違いが見えてくる。

まれにある
この平なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴く

死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

 一首目からは、穏やかではあるが、生き生きと日常の事柄を受け止めている気分が伝わってくる。二首目は、怒りと後悔に封じ込められている心が伝わってくる。
 誰しも、精神の状態は変化し続ける。晴れやかな気分が、一転、暗く不吉な気分に突き落とされることもある。そして、心の状態、その時の気分を表現する語句はなかなか見つからない。天候にたとえたり、色にたとえたりするが、思うようには表せない。
 啄木の心情の変化は、まるで我がことのように読者に伝わってくる。日常的な緩やかな気分の変化も、激しい心情の動きも、変化に伴う身体の感覚を伴って描かれている。
 こんなにも、自在に自己の心の内を、短歌で表現できるのは、啄木の凄さだと感じる。

 私にもごく似たような経験がある。

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも

 ただし、私の場合はかなり年を取ってからだ。
 啄木の年齢を考えると、不思議な気もする。啄木の場合は、中年や老年になった自分に驚くというのとは異なる感覚なのだ。
 啄木には、日々の生活に追われ、自己の姿をみすぼらしいものにしていく世の中が見えているのだろう。
 似た経験とはいえ、やはり私の感覚とは違う。


いつも逢ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

 これも、覚えのある感覚だ。
 でも、「このごろ気になる」で、気にしなくてもよいことを気にしている自己を見つめていることが伝わってくる。
 私の場合なら、あいつ目つきの悪い奴だ、きっと性格も悪くて誰からも相手にされないのだ、と「小男」を憎んで終わるだろう。

 わかりやすい心情が表現されているが、日常の出来事を描いているだけとは違っている。

 一方で、非常に特異な行為や心情が表現されている作品もある。 


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

 
泣きながら蟹と遊ぶ、ということは、叱られた子どもでもないかぎりは理解しがたい行動と心情だ。
 なぜ、こんなにもわかりやすい作品と、わかりづらい作品があるのだろうか?

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