万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 歌集『一握の砂』の感想

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

ある朝のかなしき夢のさめぎはに
鼻に入り来(き)し
味噌を煮る香(か)よ

<私が考えた歌の意味>
ある朝の悲しい夢のさめぎわのことだった。
夢から覚めるか覚めないかのときに、香りを感じた。
味噌を煮る香りだった。

<私の想像を加えた歌の意味>
悲しい夢の覚め際に感じたのは味噌汁の香りだった。
そういう朝があった。
あの時の味噌を煮る香りが今でも残っている。

<歌の感想>
 悲しい夢から覚めてホッとしているのでも、朝食が準備されていることに心を満たされたというのでもない。また、今日も平凡な一日が始まるという倦怠感を表現しているのでもあるまい。
 「ある朝」の「香」が印象に残っているだけなのであろう。感情や気分から切り離された感覚が描かれている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

うぬ惚(ぼ)るる友に
合槌(あひづち)うちてゐぬ
施与(ほどこし)をするごとき心に

<私が考えた歌の意味>
うぬぼれて、自慢話をする友人に相づちをうっている。
まるで、物乞いに施しをするような心で。

<歌の感想>
 分かりやすいし、こういうこともあるだろうと思わせられる。友の自惚れを非難しているのではなく、施しをするごとき自分の心を嫌悪していることを感じる。

A    
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

B    
大海にむかひて一人
七八日
泣きなむとすと家を出でにき

C    
わが泣くを少女等きかば
病犬の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

D    

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋の夜具のこころよきかな


 「泣く」という語の入った作品を四首並べてみた。意外にも、実際に泣いている行為が描かれているのはAだけである。BとDは、泣きたいという気持ちを描いている。Cの「泣く」は、もしも泣いている私を見たならということだ。
 そう考えると、Aも作中の行為としては、「蟹とたはむる」の方に重点があると受け取れる。
 啄木の短歌では、「泣く」は、悲しみを感じ声を出して涙を流す行為としての「泣く」とは違うものを表していそうな気がしてきた。悲しみに浸る、悲しみの底に沈む、悲しさという感情に身を任せる、散文にするなら、このような心境なのであろうか。
 そして、啄木は、悲しみの底に沈んでいる自己を、繰り返し短歌の題材にしている。啄木は、「泣く」ことを欲しているとさえ感じる。

 次の二首を比べると、作者の心の状態の違いが見えてくる。

まれにある
この平なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴く

死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

 一首目からは、穏やかではあるが、生き生きと日常の事柄を受け止めている気分が伝わってくる。二首目は、怒りと後悔に封じ込められている心が伝わってくる。
 誰しも、精神の状態は変化し続ける。晴れやかな気分が、一転、暗く不吉な気分に突き落とされることもある。そして、心の状態、その時の気分を表現する語句はなかなか見つからない。天候にたとえたり、色にたとえたりするが、思うようには表せない。
 啄木の心情の変化は、まるで我がことのように読者に伝わってくる。日常的な緩やかな気分の変化も、激しい心情の動きも、変化に伴う身体の感覚を伴って描かれている。
 こんなにも、自在に自己の心の内を、短歌で表現できるのは、啄木の凄さだと感じる。

 私にもごく似たような経験がある。

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも

 ただし、私の場合はかなり年を取ってからだ。
 啄木の年齢を考えると、不思議な気もする。啄木の場合は、中年や老年になった自分に驚くというのとは異なる感覚なのだ。
 啄木には、日々の生活に追われ、自己の姿をみすぼらしいものにしていく世の中が見えているのだろう。
 似た経験とはいえ、やはり私の感覚とは違う。


いつも逢ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

 これも、覚えのある感覚だ。
 でも、「このごろ気になる」で、気にしなくてもよいことを気にしている自己を見つめていることが伝わってくる。
 私の場合なら、あいつ目つきの悪い奴だ、きっと性格も悪くて誰からも相手にされないのだ、と「小男」を憎んで終わるだろう。

 わかりやすい心情が表現されているが、日常の出来事を描いているだけとは違っている。

 一方で、非常にわかりづらい行為や心情が表現されている作品もある。 


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

 
泣きながら蟹と遊ぶ、ということは、叱られた子どもでもないかぎりは理解しがたい行動と心情だ。
 なぜ、こんなにもわかりやすい作品と、わかりづらい作品があるのだろうか?

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