万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 万葉集

万葉集 巻一 84

秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山そ 高野原の上
あきさらば いまもみるごと つまごいに かなかんやまそ たかのはらのうえ 

<私が考えた歌の意味>
鹿が鳴いている声が聞こえている。
秋になったら、今と同じように雌鹿を求めて雄鹿が鳴くであろう。
この高野原の山で。

<私の想像を加えた歌の意味>
秋になれば、高野原の山では、妻を求める鹿が盛んに鳴くでしょう。
今も、鹿の鳴き声が聞こえています。
この声を聞くと、秋になった高野原の山の様子が浮かんできます。

<歌の感想>
 今、鹿が鳴いているのか、鹿が鳴いているのを思い描いているのか、はっきりとしない。ただ、それは重要ではないと思う。今は秋ではないが、秋になったらこうであろう、と感じ、それを表現していることがこの歌の特色なのだと感じる。

万葉集 巻一 83

海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
わたのそこ おきつしらなみ たつたやま いつかこえなん いもがあたりみん

<私が考えた歌の意味>
竜田山を越えて家にもどれるのはいつの日だろうか。
早く妻の住むあたりを見たい。

<私の想像を加えた歌の意味>
沖に白波が立つ、タツと言えば竜田山だ。
竜田山と言えば、竜田山の向こうは我が家だ。
まだまだ家に帰る日は、来ない。
妻は家で待っている。
故郷へ戻る日が来て、家のあたりを早く見たいものだ。

万葉集 巻一 82

うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば
うらさぶる こころさまねし ひさかたの あめのしぐれの ながれあうみれば

<私が考えた歌の意味>
さびしい思いで心が溢れそうになる。
しぐれの降るのを見ていると。
しぐれは、高い空から交差し流れるように降って来る。

<私の想像を加えた歌の意味>
しぐれが降りそそぐ。
高い空から、雨がいくすじもの流れとなって、降ってくる。
見上げる顔に、冷たいしぐれが当たり、心はどんどん淋しくなる。

<歌の感想>
 情景と心情を考えれば、時雨の空を眺めると心はうら淋しくなる、となろう。しかし、そのような抒情的なものは感じられない。激しく降りそそぐしぐれ、その雨に戸外で打たれている情景が浮かんでくる。

万葉集 巻一 81

山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも
やまのへの みいをみがてり かんかぜの いせおとめども あいみつるかも

<私が考えた歌の意味>
山辺の御井を見物に来た。
その見物の途中で、伊勢の娘たちとの出逢いがあった。

<私の想像を加えた歌の意味>
山辺の御井を見ることが目的であった。
御井もよかったけれど、それよりも旅の途中での出逢いの方がおもしろかった。
伊勢の乙女たちと出逢ったのだ。
伊勢の娘たちは、皆素朴で美しい。

<歌の感想>
 旅の経験を表現したと受け取ると、「伊勢娘子ども」とどんなことがあったのかと想像してしまう。だが、そうではないであろう。「御井」という地を取り上げ、「伊勢」の娘たちを、広く指していると感じる。

万葉集 巻一 80

あをによし 奈良の宮には 万代に われも通はむ 忘ると思ふな
あおによし ならのみやには よろずよに われもかよわん わするとおもうな

<私が考えた歌の意味>
奈良の宮殿はいつの世までも栄えることでしょう。
私もいつまでも通い続けます。
奈良を忘れたとは思わないでください。

<私の想像を加えた歌の意味>
奈良の新しい都はいつまでも栄え続けるに違いありません。
私もこれから先いつまでも、奈良に来たいと思うことでしょう。
以前の都にいても、新しい都の素晴らしさを忘れることなどありません。

<歌の感想>
 79の長歌もそうだが、語句に忠実に歌意をとらえると、言い訳がましい歌になる。根拠はないが、奈良に住むことはできないが、何度でも通いたいほど素晴らしい所だと新都を褒めていると感じる。

万葉集 巻一 79

大君の 命かしこみ にきびにし 家を置き
おおきみの みことかしこみ にきびにし いえをおき

こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の
こもりくの はつせのかわに ふねうけて わがいくかわの

川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ
かわくまの やそくまおちず まろずたび かえりみしつつ

玉鉾の 道行き暮らし あをによし 奈良の京の
たまほこの みちいきくらし あおによし ならのみやこの

佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ
さほがわに いゆきいたりて わがねたる ころものうえゆ

朝月夜 さやかに見れば 栲のほに 夜の霜降り

あさづくよ さやかにみれば たえのほに よるのしもふり

岩床と 川の氷凝り 寒き夜を 息むことなく
いわとこと かわのひこごり さむきよを やすむことなく

通ひつつ 作れる宮に 千代までに いませ大君よ

かよいつつ つくれるみやに ちよまでに いませおおきみよ

我も通はむ

われもかよわん

<私が考えた歌の意味>
大君の命令を受け、慣れた家を後に残して、泊瀬の川を舟で下る。
川を下りながら、何度も何度も故郷を振り返り見る。
道の途中で日も暮れ、奈良の新しい都の佐保川まで着き、そこで旅の宿りをする。
旅先の眠りから覚め、朝の月明かりで眺めると、真っ白に霜が降り、川の水が凍っている。
このように寒い夜にも、休むことなく通って作った宮殿に末永くお住まいください、大君よ。
私も新しい都に通い続けお仕えします。 

<私の想像を加えた歌の意味>
大君の仰せですので、住み慣れている家を後にして、奈良の都に向かいました。
舟で泊瀬の川を下り、何度も何度も家の方を振り返るうちに、日も暮れて、奈良の佐保川に着きました。
佐保川で仮寝をし朝起きると、朝の月明かりの中、真っ白な霜と川面が凍っている景色が見えます。
こんなに寒い所で、多くの人々が休むことなく働いてできあがった新しい都だということがよく分かります。
大君は、このような大工事で造営された奈良の宮殿で末永く在位されることでしょう。
私も、大君のいられるかぎり通ってまいります。

<歌の感想>
 意味が通じない長歌と感じる。作者の本心は、新しい都へ行きたくないとも受け取れる。しかし、それでは、天皇の意向に逆らうことになる。
 奈良の都を讃える語句はないが、やはり新しい「宮」をほめる趣旨の歌なのであろう。
 口訳萬葉集 折口信夫に、次のようにある。
 つじつまのあはぬ處のある歌であるが、ともかくも、要所々々は確かに捉へてゐる。

万葉集 巻一 78

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらん

<私が考えた歌の意味>
ここからもっと進むと、明日香の里を離れてしまう。
もう、あなたがいらっしゃる所はすっかり見えなくなってしまうでしょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
新しい都を目指して、旅路を進む。
長年住み慣れた旧都明日香の里からはずいぶんと離れてしまった。
この旅は続けねばならないが、これ以上明日香を離れてしまうのは、悲しい。
あなたと一緒に暮らした里の辺りもまったく見えなくなってしまうでしょうから。

<歌の感想>
 遷都の事情や、「君」と作者との関係など、いろいろと気になる。作品の背景については諸説ある。しかし、推測しかできないので、題詞と短歌の表現の範囲で歌の意味をとらえてみた。

 口訳萬葉集 折口信夫の訳が味わい深いので、引用する。
 住み慣れた飛鳥の里を、後にして行つてしまつたら、戀しい人の住む家のあたりも、見えなくなつてしまふであらう。

万葉集 巻一 77

わが大君 ものな思ほし 皇神の 副へて賜へる 吾がなけなくに
わがおおきみ ものなおもおし すめかみの そえてたまえる わがなけなくに

<私が考えた歌の意味>
大君よ、そんなにご心配なさらないでください。
代々のご先祖様が、あなた様をお助けするようにと私をお遣わしになったのですから。

<私の想像を加えた歌の意味>
即位した妹よ、天皇として国を治めることをそんなにも不安に思わないでください。
姉の私がいるではありませんか。
私は、あなたが天皇となったときには、あなたを助けるために生まれてきたのですから。

<歌の感想>
 「大君」は元明天皇で、作者は姉に当たる御名部皇女(みなべのひめみこ)とされている。背景については、詳しくは考えずに、短歌のだいたいの意味をとらえてみた。
 そうとらえても、76と77は政治的な役割を持たされているような気がする。それは、76では武人の意向に対する天皇の懸念を表明し、77では天皇の正統性と誰が補佐するかを多くの人々に示している、と感じる。

万葉集 巻一 76

ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣 盾立つらしも
ますらおの とものおとすなり もののうの おおまえつきみ たてたつらしも

<私が考えた歌の意味>
弓を持つ勇ましい人々の鞆の音が聞こえてきた。
軍を指揮する人が盾を立てているのであろう。

<私の想像を加えた歌の意味>
弓を射る時の装具が触れ合って鳴る音が聞こえてくる。
弓自慢の男たちが支度をして集まっている時の音だ。
勇ましい男たちの前では、彼らを指揮する大将が合図の盾を立てている様子が目に浮かぶ。

<歌の感想>
 武人の儀式が行われているのを、その場には行かない作者が想像していると受け取った。普段は聞かれない鞆の音から、盾を立てるという行動を類推しているのであろう。勇ましい武人たちと武具が持つ美しさが描かれているように感じる。
 ただし、作者元明天皇が「ますらを」にどんな感じを持っているのかについては、この短歌からは分からない。
 
 口訳萬葉集 折口信夫では、次のように解釈しているので、引用する。
達者な人々が、弓を引く手の鞆の音が、(復もや)して来る。また戦いの大将軍が盾を設けて、武術の練習をしているようだ。(此の御歌の中には、女帝であるだけに、人民の労苦を思はれる以上に、戦いを厭はれる御心持ちが拝せられる。)

万葉集 巻一 75

宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに
うじまやま あさかぜさむし たびにして ころもかすべき いももあらなくに

<私が考えた歌の意味>
宇治間山は朝の風が寒い。
旅の途中なので、衣を着せてくれる妻もいない。

<私の想像を加えた歌の意味>
家にいたなら、今朝のように寒い朝は、妻が衣をかけてくれただろうに。
旅を続けているので、妻はいない。
宇治間山の今朝の風の寒さが身に染みる。
一刻も早く家に戻りたい気持ちが増してくる。

<歌の感想>
 旅先で、家のことを恋しく思う歌の類型の一つのように感じる。作者が実際に寒さを感じているのに、誰も世話をしてくれないことを表現しているとは受け取れない。地名と気象と旅先の気持ちの調和がとれている所に、この歌の良さがあると思う。

万葉集 巻一 74

み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我がひとり寝む
みよしのの やまのあらしの さむけくに はたやこよいも あがひとりねん

<私が考えた歌の意味>
吉野の山は嵐で、寒い風が吹きつけてくる。
こんな夜なのに、今晩も私は一人で寝るのだろうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
旅に出ないで、都にいたなら夜は妻と一緒に床についているだろう。
今は、旅先なので、今晩も一人で寝ることだろう。
吉野の山は嵐で、風が寒い。
寒い夜だと、妻と一緒の暖かい床がいっそう恋しい。

<歌の感想>
 行幸の意義と晴れやかな部分は、行幸に伴う儀式などで大いに語られることが想像できる。その一方で、旅に伴う辛さも表現されたのであろう。旅に伴う苦労や故郷の家族を思う心情を表現するには、短歌という形式がふさわしいと、当時から思われていたと思う。
 この歌の意味は、分かりやすい。それだけに、現代の感覚で個人の感傷ととらえない方がよいのだろう。
 「み吉野」の地名が、効果的に詠み込まれているのが重要なのだ。さらに、旅先では皆がこういう気持ちになる、と共感しあう意識の方が、作者個人の心情よりも色濃く表現されていると感じる。

万葉集 巻一 73

我妹子を 早み浜風 大和なる 我松椿 吹かざるなゆめ
わぎもこを はやみはまかぜ やまとなる われまつつばき ふかざるなゆめ

<私が考えた歌の意味>
家に残してきた妻に早く会いたい。
浜風よ、大和の私の家の松や椿に吹かないでくれ。

<私の想像を加えた歌の意味>
早く大和に戻って、妻に会いたい。
ここでは、浜風が強く吹いている。
早い浜風よ、私が帰る前に大和まで至らないでくれ。
浜風よ、私を待っている家の松や椿を吹き荒らさないでくれ。

<歌の感想>
 歌の意味をはすっきりとは伝わってこない。風と大和の家との関係がぼんやりとしている。それよりは、「早み」が早く見たい意味と、早い意味、「松」が、松と待つの掛詞になっている面白さの方が重要なのであろう。

万葉集 巻一 72

玉藻刈る 沖辺は漕がじ しきたへの 枕のあたり 忘れかねつも
たまもかる おきへはこがじ しきたえの まくらのあたり わすれかねつも

<私が考えた歌の意味>
舟遊びをしないでおこう。
妻のことばかり思い出されるので。

<私の想像を加えた歌の意味>
みんなは今日も舟遊びに興じ、沖へと漕ぎだしていく。
私は、舟遊びに行く気にもなれない。
留守にしている家のことが気にかかるからだ。
とりわけ、妻と睦まじくしたことばかりに思いがいく。

<歌の感想>
 四区目は家の妻のことを指しているという解釈に沿って歌意を考えた。家の妻ではなく、旅先での女性とする解釈もある。
 家の妻のことを恋しく思っている気持ちを表した類型的な作のひとつのように感じる。

万葉集 巻一 71

大和恋ひ 眠の寝らえぬに 心なく この洲崎廻に 鶴鳴くべしや
やまとこい いのねらえぬに こころなく このすさきみに たずなくべしや

<私が考えた歌の意味>
洲崎の辺りから鶴の鳴き声が聞こえる。
大和のことが恋しくて眠りにもつけない。
私の心も考えずに鶴が鳴いてよいものか。

<私の想像を加えた歌の意味>
鶴の声は、もの悲しいものだ。
今晩は、洲崎の辺りから鶴の鳴き声が聞こえている。
家を思う時に、鶴の声を聞くともっと恋しくなる。
大和の妻子に会いたくなって、眠りにつくこともできない。
鶴よ、そんなに鳴かないでくれ。

万葉集 巻一 70

大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 鳥象の中山 呼ぶびそ越ゆなる
やまとには なきてかくらん よぶこどり きさのなかやま よびそこゆなる

<私が考えた歌の意味>
大和の私の妻と子は、呼子鳥が鳴きながら飛んで来たと思うだろう。
今は私のいるきさの中山を越えていく呼子鳥の声が聞こえている。

<私の想像を加えた歌の意味>
今、旅先で鳴き声の聞こえている呼子鳥は、妻と子のいる大和へ飛んでいくのだろう。
渡ってきた呼子鳥の声を聞くと、妻や子は私が懐かしがって呼んでいると思うだろう。
きさの中山には、空高く渡っていく呼子鳥の声が響いている。

<歌の感想>
 鳥の泣き声を描き、その鳥の飛ぶ先を想像することで、家や家族を思う気持ちを表現している。
 今、眼前にある風物だけでなく、遠く離れた場所の時間的に先のことが描かれている。巻一の作者は、いくつかの短歌で、距離的に離れた場所を表現することに、強い意欲を示していると感じる。
 呼子鳥が大和から飛んで来た、と解する注釈書もある。

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