万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 万葉集の感想

万葉集 巻二 170 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌 或る本の歌一首(167~170から) 巻二 167 168 169 170島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かずしまのみや まがりのいけの はなちどり ひとめにこいて いけにかずかず…
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 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193)について、口訳萬葉集 折口信夫では、次のように書かれている。「この廿三首は、恐らく柿本人麻呂のやうな、名家の代作であらうと思はれる。すべて傑作である。」(193)  これを、読ん…
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 今の私たちにとって、短歌の題材に制限などはない。そうでありながらも、個人の感動が表現されるのが当然と考えているし、個人の思いが題材になった作品が圧倒的に多い。 近現代の旅の短歌は、根本的には旅行中の作者個人の感動が詠まれている。 だが、万葉集の時代はそ…
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※以前の記事を改めました。 何がきっかけになっているかわからないが、万葉集を年に何回か開く。  私の古文を読む力では、口語訳がないと意味をとらえられない。そこで、今でも口語訳に頼りながら読んでいる。 ただし、口語訳や大意は、原文に忠実なので、独特な現代文…
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 長歌は、逐語訳しなければ、歌の意味を散文にしやすい。 だからといって、散文として、読むと意味のつながりが奇妙になる。 ただ、柿本人麻呂の長歌は、その点、リズムもよいし意味も取りやすい。人麻呂の長歌は、他の作者とは違う。 額田王の巻一16の長歌は、清少納言…
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 万葉集をどう訓み下すかは、専門的になり、私にはわからない。 そこで、手元にある本で、巻一 15の訓み下し文と、口語訳の違いをみておく。新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ大海原にたなびく見事な旗雲に夕日が…
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 万葉集巻一 8 の左注を正しいとするならば、8の作者は額田王ではなくなる。 また、今までの注釈では、舟遊びとしたり、軍船の出航としたり、様々だ。 原文のことばがきや左注を歴史上のできごとと照らし合わせて、正しく読もうとするならば、できる限り多くの資料に当…
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 柿本人麻呂の巻一 29~31を読むと、作者の興味が荒れ果てた都跡に注がれていることが分かる。これは、人麻呂個人の視点ではない。当時の人々が長歌短歌に求めたものが、荒れ果てた都の跡の景色であり、風情であったと思われる。 そして、そこに、過去を思い出し、昔の栄…
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 少しずつ、万葉集中の柿本人麻呂の作を、私なりに散文にしてみている。そうすると、だんだんにこの人がどんな作家よりも抜きんでた表現者に思えてきた。 特にその長歌(巻二 210)に驚く。こんなに短い文字数の中で、妻の死を悼む人間の心情をあらゆる面から描いている。…
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 山上憶良の 銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも は、有名な短歌だ。 だが、作品からイメージできる情景はほとんどない。また、作者の個人の心情というよりは、非常に広い範囲の人々がもつ心情が表現されている。 また、この反歌から、当時既に金銀財…
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 「挽歌」に注目したことはなかった。万葉集の分類としても、一般なジャンルとしても、意識して読んだことはない。 最近、万葉集巻五と石川啄木『一握の砂』を読んでいる。 万葉集巻五の部立ては雑歌であるが、793~799までは内容からすると挽歌だ。 『一握の砂』の成立…
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