万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 万葉集

柿本朝臣人麻呂羇旅の歌八首 巻三 249~256  249 250 251 252 253 254 255 256

 柿本人麻呂は、旅先の地の特徴をそれぞれ題材として挙げている。
 そこには、各地の景観が、旅の移動に伴う動きとともに描かれている。また、作者が、旅の途中のそれぞれの地方への到着を楽しみにしている気持ちが表れている。
 一方で、251・252・254では、旅の途中途中で、都、大和を恋しく思う気持ちが表れてくる。そして、255では、「柿本朝臣人麻呂羇旅の歌八首」の中で、最も強く作者の気持ちを感じる。それは、故郷大和へ早く戻りたいという思いだ。
 八首を通して読むと、都とは違う辺鄙な旅先の地へ向かいながら、いつも心にあるのは都のことであった人麻呂の心情が感じられる。
 ※249は一部分解読不能。
 ※一連の短歌から時間的経過と旅程を想定することはできないとされている。

万葉集 巻二 170 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌 或る本の歌一首(167~170から) 巻二 167 168 169 170

島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず

しまのみや まがりのいけの はなちどり ひとめにこいて いけにかずかず


<私の想像を加えた歌の意味>
飼われている鳥に、亡き主人を恋う気持ちがあるのか。
島の宮の勾の池の鳥は、人を恋しがって池に潜らなくなった。

 この短歌を読んだ時に、よくわからないと感じた。水鳥が池に潜らなくなることと皇子の死とが結びつかなかった。しかし、何回か読むうちにこの作を好きになってきた。
 亡くなった日並皇子を思い出すのは、皇子その人の言動だけではない。皇子が住んだ宮殿であり、皇子が散策した庭園であり、皇子が好きだった景色や鳥など、全てが亡き人を思い出させるのであろう。
 人の死は、その人だけでなく、その人がいた風景や空気をも消滅させるということであろう。
 人麻呂は、悲しみと寂しさを、心情を表す語句を一切使わずに表現していると感じる。

 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193)について、口訳萬葉集 折口信夫では、次のように書かれている。

「この廿三首は、恐らく柿本人麻呂のやうな、名家の代作であらうと思はれる。すべて傑作である。」(193)
 
 これを、読んで胸のつかえが取れたような気がした。たとえば、次の三首を並べて見ると、これが別々の人の作と思う方が不自然だと感じる。

177
朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし
あさひてる さだのおかへに むれいつつ わがなくなみだ やむときもなし

189
朝日照る 島の御門に おほほしく 人音もせねば まうら悲しも
あさひてる しまのみかどに おほほしく ひとおとせねば まうらかなしも

192
朝日照る 佐田の岡辺に 鳴く鳥の 夜泣きかはらふ この年ころは
あさひてる さだのおかへに なくとりの よなきかわらう このとしころは

 初句が同じというだけでなく、朝日と対比する涙、悲しみの描き方は共通のものを感じる。そして、三首ともその場の光景と舎人たちの様子が的確に表現されている。
 この一連の短歌と、169の人麻呂の歌とが関連していると見て、味わう方がおもしろい。

169
あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも
あかねさす ひはてらせれど ぬばたまの よわたるつきの かくらくおしも 記事169

 今の私たちにとって、短歌の題材に制限などはない。そうでありながらも、個人の感動が表現されるのが当然と考えているし、個人の思いが題材になった作品が圧倒的に多い。
 近現代の旅の短歌は、根本的には旅行中の作者個人の感動が詠まれている。
 だが、万葉集の時代はそうではなかったのだろう。万葉集巻一の行幸や遊猟の作では、作者一人の見聞が表現されることはほとんどない。そのようなことは、歌の題材として求められていないとさえ感じる。
 そこには、旅行という文化がなかったこともあろう。また、長短歌を作る際も、近現代のように文字を通しての表現とは全く違っていたことも理由であろう。
 万葉集の作者は、行幸や遊猟の一団の中にいて、歌を作り、それを一同の前で音声で披露したであろう。
 そのような設定を想像しつつ、行幸、遊猟の万葉集の歌を味わうと、近現代の旅の作品とは違うおもしろさが見えてくる。

※以前の記事を改めました。

 何がきっかけになっているかわからないが、万葉集を年に何回か開く。
 
 私の古文を読む力では、口語訳がないと意味をとらえられない。そこで、今でも口語訳に頼りながら読んでいる。
 ただし、口語訳や大意は、原文に忠実なので、独特な現代文になっていて、意味が伝わってこないことがある。
 そこで、私なりに、歌の意味を自分がわかるように書いている。だから、原文に忠実ではないし、古典文法を調べた上のものでもない。

 

このブログの万葉集の本文については、概ね以下のようにしている。

・万葉集の訓み下し文は、日本古典文学全集 萬葉集 小学館・日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店より書き抜いた。
・読みについては、訓み下し文に沿って、私が現代仮名遣いで表記したので誤りも多いと思う。
・<私が考えた歌の意味><私の想像を加えた歌の意味>は、すでにある口語訳や解釈を読んだ上でそれらを参考に書いている。

 長歌は、逐語訳しなければ、歌の意味を散文にしやすい。
 だからといって、散文として、読むと意味のつながりが奇妙になる。
 ただ、柿本人麻呂の長歌は、その点、リズムもよいし意味も取りやすい。人麻呂の長歌は、他の作者とは違う。
 額田王の巻一16の長歌は、清少納言の文体につながるようにも感じる。
 長歌という形式がなぜ廃れてしまったのか、興味が湧いてきた。

 万葉集をどう訓み下すかは、専門的になり、私にはわからない。
 そこで、手元にある本で、巻一 15の訓み下し文と、口語訳の違いをみておく。

新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ
大海原にたなびく見事な旗雲に夕日が強く差して、今夜の月は明るくさやかであってほしい。

日本古典文学全集 萬葉集 小学館
わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
大海原の 豊旗雲に 入日を見たその 今夜の月は 清く明るくあってほしい

日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店
わたつみの豊旗雲に入日見し今夜の月夜さやに照りこそ
大海の豊旗雲に入日の差すのを見た今夜は、月もさやかに照って欲しいものである。

口訳萬葉集 折口信夫
わたつみの豊旗雲に入日さし、今宵の月明らけくこそ
海の上に、大きな雲が広がつてゐる。その雲に落日がさす位の天気になつて、今夜の月は、明らかであつてくれ。


 古典は、原文そのものが何通りもある。さらに、それをどう訓(よ)み下すかで、歌の意味がまるっきり違う場合もある。
 そこが、またおもしろい。

 巻一の13、14は、男性二人と女性一人の三角関係を山にたとえているが、どう解釈するかで、山それぞれの性別さえもまるっきり違ってしまう。

 万葉集巻一 8 の左注を正しいとするならば、8の作者は額田王ではなくなる。
 また、今までの注釈では、舟遊びとしたり、軍船の出航としたり、様々だ。
 原文のことばがきや左注を歴史上のできごとと照らし合わせて、正しく読もうとするならば、できる限り多くの資料に当たるべきだ。
 私の場合は、そういう読み方を目指してはいない。もちろん、読みを深めるための資料があれば、それは大いに参考にする。だが、作品のイメージを膨らませるにふさわしい資料だけを参考にするという気ままなものでしかない。
 
 この作品について今までの解釈のいくつかも読んだが、自分の感覚として次のように受け取った。
 8の作は、額田王のものであろう。
 船出は、作者も乗り込む船で、夜間の海路の航行と想像した。根拠はない。そういう背景と受け取ると、作品の情景と作者の心情を思い描きやすいというだけだ。

 柿本人麻呂の巻一 29~31を読むと、作者の興味が荒れ果てた都跡に注がれていることが分かる。これは、人麻呂個人の視点ではない。当時の人々が長歌短歌に求めたものが、荒れ果てた都の跡の景色であり、風情であったと思われる。
 そして、そこに、過去を思い出し、昔の栄華を懐かしむだけではないものを感じる。
 「近江の荒都」は、栄えた時があった。栄えた時があったからこそ、今の荒れ果てた情景が心をうつ。

 長歌短歌が、勢いを増す天皇と、その都の繁栄ぶりを表現する場合もある。
 だが、柿本人麻呂の作品は、過去の繁栄と現在の衰退を描くときに一段と精彩を放っていると感じる。

 少しずつ、万葉集中の柿本人麻呂の作を、私なりに散文にしてみている。そうすると、だんだんにこの人がどんな作家よりも抜きんでた表現者に思えてきた。
 特にその長歌(巻二 210)に驚く。こんなに短い文字数の中で、妻の死を悼む人間の心情をあらゆる面から描いている。
 亡くなった妻のどんな姿を思い出すか。
 生きていた妻にどんな気持ちをもっていたか。
 妻の死のその時をどう感じたか。
 残された子にどう接しているか。
 妻亡き後の日々をどう過ごしているか。
 悲しみをどう慰めようとしているか。

 散文にはとうていできないような豊かな内容と哀切な調べが時を超えて届いてくる。
 しかも、この日本語の詩が、表音文字だけで表現されていることをどうとらえればよいのだろうか。
 現代の私たちと異なり、当時の人々は、日本語の音だけでこれを表現し、享受していたというのか。

 山上憶良の 銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも は、有名な短歌だ。
 だが、作品からイメージできる情景はほとんどない。また、作者の個人の心情というよりは、非常に広い範囲の人々がもつ心情が表現されている。
 また、この反歌から、当時既に金銀財宝を至上の物とする価値観があったことを知ることができる。子どもへの愛情よりも、蓄財を優先するような風潮をたしなめる役割をもたされていたのではないか、とさえ思える。
 そのように考えても、802と803の長歌反歌は名作だと思う。
 うまい物を食べたときに、これを子どもにも食べさせたいと、あらゆる時代でどれほどの親が思ったことか。
 離れている子のことが心配になり、あらゆる時代のどれほどの親は眠られぬ夜を過ごしたことか。
 たとえ親でなくてもどれほどの人が、幼い子の愛らしさに救われる思いをしたことか。

 時代を超えて、多くの人々が共感できる心情を五音七音の調べにのせて表現しているのが、この長歌と反歌だと思う。それは、現代にも受け継がれている。

 「挽歌」に注目したことはなかった。万葉集の分類としても、一般なジャンルとしても、意識して読んだことはない。
 最近、万葉集巻五と石川啄木『一握の砂』を読んでいる。
 万葉集巻五の部立ては雑歌であるが、793~799までは内容からすると挽歌だ。
 『一握の砂』の成立の事情について調べるつもりはないが、私は冒頭の数首を亡き子を思う作品と受け取った。根拠は歌集の前書き以外には何もないし、亡き子を悼む心情を表現しているという解釈を読んだこともない。だから、根拠も自信もない。 

 人麻呂と憶良の挽歌を読み、茂吉と啄木の亡き人のことを作歌の動機とした短歌を何首か読むと、そこに時代を超えた流れを感じる。
 死を悼む気持ちを表すには、短歌(長歌)の形式がふさわしいとさえ感じられる。

 人の死に接したときの気持ちは、時代を問わず容易に表しきれるものではない。だが、表現せねば残された者は、いたたまれないし立ち直れない。いかに、死に伴う悲しみに打ちのめされようと、残された者は生きていかねばならない。
 死を悼む心情を表すことができる特異な表現形式が短歌(長歌)であり、その作品によって多くの人々の共感を得ることができる歌人が存在すると感じる。

 人麻呂も憶良も、自分自身に深く関係のある人物の死でなくても、死を悼む気持ちを表すことができた。そして、それは当事者にとっては自分の表現以上に、自身の心の表出と感じられたのであろう。

 啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の一連の歌は、亡き子への挽歌が、生きる啄木の「我を愛する歌」へと広がり深まっていったと感じた。

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