万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 山家集 西行

 同じような題材で、微に入り細に入り春の風物が表現されている。
 季節のことを、表現しているのだろうかという疑問がわいてくる。これは、季節を軸にした作者の日常なのではないかと思う。
 朝起きてこれをしていたら、このことが気になったということなのではないか。

 食べたものを毎日報告する人がいる。自分の料理を常に報告する人がいる。毎日の服を報告する人がいる。現代では、その媒体はSNSなどだ。
 西行の場合は、四季の変化を題材として、日々をツイートしていると感じてしまう。

山家集 上巻 春 33 7014

春の霞 いへたちいでで 行きにけん 雉子たつ野を 焼きてける哉
はるのかすみ いえたちいでて ゆきにけん きぎすたつのを やきにけるかな

<口語訳>
春霞の中出かけて見に行ってみよう。雉の来ている野で野焼きがあったから。

<意訳>
春の野の雉のことをいろいろに思っていた。
その野が春の野焼きで焼き払われたということだ。
雉はどうなったか、出かけて行って見てみたい。

<意訳2>
 春が来て、野原のことや雉のことが気になっている。でも、庵から出かけるチャンスもなかなか来ない。だから、毎日、見てもいないことを気にしつつ、想像しつつ過ごしている。
 もう、春の野焼きさえ終わってしまった。なんとか、出かけて行って野焼きのあとの原っぱを見たいと思っているんだけどなあ。

山家集 上巻 春 32 7012

おひかはる 春の若草 まちわびて 原の枯野に 雉子なくなり
おいかわる はるのわかくさ まちわびて はらのかれのに きぎすなくなり

<口語訳>
若菜が芽吹くのを待ちきれなくて、野原の枯野で雉が鳴いている。

<意訳>
春がきたが、若菜の芽はまだ萌えださず、野原は枯れている。
若菜の芽はまだでないのに、待ちかねて雉が来ている。
春の枯野に、雉が盛んに鳴いている。


 原は、春の枯野だ。そこは、間もなく若菜の芽で緑になる。雉の鳴き声が聞こえる。姿は見えないが、雉は何をしているのだろう。
 作者の関心は、季節の到来に注がれつづけ、あらゆることが季節の変化と結びつけられている。和歌の題材として四季の変化よりも重要なものがあるものか、という意識を感じる。
 季節の変化だけを題材にした作を続けて読むと、だんだんに飽きてくる。だが、人と時代を問わず、季節の変化以上に人間にとって大切なもの、心を豊かにしてくれるものがあるか、と問われると、答えは簡単ではない。

山家集 上巻 春 31 7011

もえいづる 若菜あさると 聞ゆなり 雉子なく野の 春の明けぼの
もえいずる わかなあさると きこゆなり きぎすなくのの はるのあけぼの


<口語訳>
萌え出たばかりの若菜をあさって雉が野原で鳴いているようだ。
春の曙どきに。

<意訳>
春の曙、雉の鳴き声が野原の方から聞こえてくる。
あの雉は、芽を出したばかりの若菜をついばんでいるだろう。

山家集 30 7010

春のほどは 我がすむ庵の 友に成りて 古巣な出でそ 谷の鶯

<口語訳>
谷の鶯よ、春のうちはこの谷の古巣を出ないでくださいよ。
私が住む庵のそばに、友としていてくださいね。

<意訳>
春になり鶯もしきりに鳴いているのに、私の庵には訪れる人もいない。
谷の鶯よ、春のうちは私の友として古巣にとどまり、谷を出ていかないでくれ。
春を一緒に味わう友はおまえしかいないのだから。

山家集 27 7007

すみける谷に、鶯の聲せずなりければ

古巣うとく 谷の鶯 なりければ 我やかはりて なかんとすらん

<口語訳>
谷の鶯が古巣に戻ることがなくなったら、この谷では鶯の声が聞こえなくなるだろう。
そうなったら私が鶯に代って泣くようになるだろう。

<意訳>
私が住んでいる谷で盛んに鳴いている鶯ももうすぐ古巣をあとにするだろう。
鶯が古巣へ戻らなくなったら、鶯の鳴き声に代わって、私が泣き声をあげることにしよう。
鶯のいる今はよいが、そのうち鶯もいなくなると、この谷も寂しいものになるだろうから。


 西行の庵では、鶯の鳴き声が盛んだった。その鳴き声もだんだんに間遠になってきた。花の時期にたとえれば、花の満開が終わり、散り始めるころと似た感じを表現していると感じる。
 同時に、自分の庵を訪れる人も減ってきたことを表現しているようにも感じる。「我やかはりてなかんとすらん」にはそれを思わせるものがある。

山家集 26   7006

鶯の 春さめざめと なきゐたる 竹のしづくや なみだなるらん

<口語訳>
鶯が春雨の中でさめざめと鳴いている。
春雨に濡れる竹の滴は、鶯の涙であろう。

<意訳>
春雨が滴となって竹を濡らしている。
鶯の鳴き声が、春雨の中で、聞こえてくる。
この竹の滴は、鶯がさめざめと泣くその涙と思えてならない。


 竹から落ちる滴、竹の表面につく滴、その滴のことだけを表現しているのではない。もちろん、滴を鶯の涙と信じているのでもない。
 春雨の「さめ」と、「さめざめと」の「さめ」、鶯が「鳴く」と、「泣く」の連想を楽しんでいることもあるが、それだけが目的の和歌でもない。
 聴覚と視覚、さらに竹の滴を鶯の涙に見立てた空想、なかなかに複雑な構成だ。音も景色も感じられ、それらが空想的な色合いを帯びていておもしろい。

山家集 25 7005

閑中鶯
鶯の こゑぞ霞に 洩れてくる 人めともしき 春の山ざと

<口語訳>
鶯の声だけが霞の中から洩れてくる。
人の行き来もまれな春の山里。

<意訳>
春の山里は人の行き来もなく、春霞がかかっている。
柔らかな霞の景色の中で、鶯の鳴き声だけが聞こえてきた。
姿ははっきりせず鳴く声だけの鶯、静かな山里の春だ。


 いきなり意訳を書くと、和歌のどこに注目したかがあいまいになるような気がし出したので、まずは自分なりの口語訳を書き、その後意訳を考えてみた。

山家集 西行 19 6999

春日野は 年のうちには 雪つみて 春は若菜の 生ふるなりけり

冬の間は雪景色の野原だ。
その原が、春になると一面に若菜が生え、若菜摘みに皆が集まる。
春日野は、冬から春への変化をはっきりと見せてくれる所だ。


 春を迎える前の雪景色。雪の下で春へ向けて動く自然の営み。春になった春日野の景色。春を迎えて行われる若菜摘みの賑わい。
 たくさんの要素が、一首の中に込められている。短くて、美しいリズムの中で、これら多くのことを味わうことができる。
 作者はいったいどこで何を見ているのだろうか。和歌を作ったのは年のうちなのか春なのか。こういう詮索は意味がないようにさえ思える。

山家集 18 6998

今日はただ 思ひもよらで 帰りなむ 雪つむ野辺の 若菜なりけり

春は来ているだろうかと、野原に出かけてみた。
野原はまだ雪が積もっていて、春の気配は少しも感じられない。
今日は、この野原で若菜を摘むことなど思いもよらない。

 今日は雪の積もっている野原だが、間もなく、春の景色に一変するだろうという思いが感じられる。

山家集 5 6984

門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春はきにけり


家々に松が飾られている。
町中の家々が春を迎えている。


 現代とは暦が違う。旧暦を考えながら味わう必要がある。「小松」は門松のようなものとの解説もあるが、よくは分からない。ただ、家並が続き、その家ごとに新春を迎える飾りがある風景は想像できる。
 昭和時代にはプラスチック製であっても正月飾りが多くの家々に飾られていた。私が子どもの頃は、銀行やデパートには立派な門松も飾られていた。年賀状や雑煮もそのうちに過去のものになりそうだ。

山家集 3 6981

春立つと おもひもあへぬ 朝出に いつしか霞む 音羽山哉

まだ春が来るとは思っていなかった。
朝出かけて山の方を見ると、音羽山に霞が立っている。
春が来た、と感じた。


 自分の家の周りには、春を告げるような景色を見いだせない。でも、暦は春になっている。
 朝に行く所があって、出かける道すがら遠くの山を見る。遠くの音羽山の風景がなんとはなしに春めいて見える。その景色に春の到来を感じ取った、といった気分だろう。
 山が霞んで見える、遠くに春霞が見える、などというのは見る人によって異なる曖昧な現象であろう。その曖昧さ、わずかな変化を表現しているのが、おもしろい。

山家集 2(底本の歌の通し番号)  6980(続国歌大観番号) 
※本文は、日本古典文学大系 山家集 金槐和歌集 岩波書店 によった。ただし、漢字の字体は新しいものに改めた場合もある。

山のはの 霞むけしきに しるきかな けさよりやさは 春の曙

春が来たと、今朝、感じた。
曙の山に霞がかかっている景色に、春を感じとった。


 季節の推移は明らかなものではない。昨日まで冬で、今日からは春だとは言えないものだ。それでいながら、暦に沿って季節の変わり目を感じるし、天候や景色の変化によって新しい季節をとらえている。
 あいまいで緩やかな変化を複合して、ある時にフッと「春になった」と感じる。
 そういう感受の様が表現されていると思う。

 挽歌を続けて読むと、気持ちが重くなる。そこで、西行を読んでみた。気持ちが緩むようだ。現代の私も、同じ時刻、同じような景色に、春を感じる。不思議なものだ。

↑このページのトップヘ