万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

カテゴリ: 『一握の砂』石川啄木「我を愛する歌」

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より 以前の記事を改めた。

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

<私の想像を加えた歌の意味>
勤めを終えたが、すぐに家に帰る気になれない。
また、向かう先は、人影のなくなった海辺。
砂浜に腰を下ろす。
ほの暗い海に波音だけ。
砂の上で指を動かす。
「大」という字を書いていた。
「大きくなれ」「大きな心を持て」「大きな‥‥」、何度も何度も「大」を書く。
気持ちが軽くなって来る。
死ぬのは、いつでもやれる。
生きていこう。
妻の待つ家へと帰って来た。

<歌の感想>
 押しつぶされそうな状況からは、もがいてももがいても抜け出せなかった。悩み考えることを止め、砂浜で時間を過ごす。砂にただ「大」と書き続ける。
 「大」に特別な意味を見出しているのではない、と思う。思いつめるのではなく、ただ砂と触れ合うことが、死のうという気持ちを変えさせたことを感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

かの旅の汽車の車掌が
ゆくりなくも
我が中学校の友にてありき


<私が考えた歌の意味>
この旅で乗った汽車の車掌が、思いがけなく中学校の時の友達だった。

<歌の感想>
 歌の意味を散文にしてみると、この偶然の事実しか伝わってこない。
 短歌では、車掌の顔を見て、一瞬分からなかったが、直ぐに友達だと気づいた驚きが伝わってくる。それと同時に、中学校の頃のことを次々と思い出している作者の心情が感じられる。友であった車掌の方も作者に気づくが、執務中なので、話し込むわけにはいかない様子も想像できる。
 旅の途中、懐かしい友に偶然会う。この短歌には、旅情と懐旧の情が描かれている。
 啄木は、この短歌で日常の出来事を、そのまま詠んでいるように感じられる。こういう表現のできる人が、「歌人」と呼ばれるにふさわしいのであろう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より ※以前の記事を改めた。  

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

<私が考えた歌の意味>
東方の小島に来た。
磯の砂浜の砂は白い。
私の涙はとどまることがない。
涙にくれながら磯の蟹とたわむれる。

<私の想像を加えた歌の意味>
ここは人もほとんど来ない東海の小島。
磯があり、浜があり、砂浜が白い。
ここにいるのは、私だけ。
磯の蟹と私は遊ぶ。
心は、泣き、涙に濡れそぼっている。
泣きぬれて私は、磯の蟹と遊んでいる。

<歌の感想>
 文字も音調も美しい。情景も心情も伝わって来る。
 啄木は、短歌の中の「われ」を見つめ、描いているようだ。そういう意味で、「我を愛する歌」は、この作品にぴったりだと思う。
 私は、この有名な一首を好きになれない。美しく、情感の表現も見事だと思うのだが、短歌の世界として完結してしまっているような気がする。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

やとばかり
桂首相に手をとられし夢みて覚めぬ
秋の夜の二時

<私の想像を加えた歌の意味>
ヤアヤアと桂首相が私の手を取って迎えてくれた。
そんな夢を見て、秋の夜の二時に目が覚めた。
夢でしかないのだが、政治の中枢で活躍してみたい気持ちを持つこともある。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

誰(た)そ我に
ピストルにても撃(う)てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

<私が考えた歌の意味>
誰か、私をピストルで撃てばよい。
そうしたら、伊藤首相のように潔く死んでみせよう。

<歌の感想>
 潔く死んで見せよう、と作者が感じているかどうかはよく分からない。或いは、あっけなく死んでみせよう、という気持ちなのかもしれない。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何事も金金とわらひ
すこし経(へ)て
またも俄(には)かに不平つのり来(く)

<私の想像を加えた歌の意味>
世の中は結局のところ、金が全てを回している。
企業も政府も金を求めて動いている。
そんなつまらない世の中や、社会を動かしている権力者に不平を言っても始まらないと、笑い飛ばす。
笑い飛ばしても、少し時が経つと、またも急に世の中を支配している権力者と仕組みに不平が募ってくる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何事も思ふことなく
いそがしく
暮せし一日(ひとひ)を忘れじと思ふ

<私の想像を加えた歌の意味>
過去を思い出したり、他人が自分を見る眼を気にしたりすることがない一日だった。
それほどすべきことを次々とやり、忙しかった。
思い悩むことのない一日が私にもあった。
そのような日は続きはしないが、私にもそういう日があったことを忘れないでいようと思う。

<歌の感想>
 似た境地を描いている作は他にもある。「思ふこと」のない日は、啄木にはほとんどないであろう。そして、「いそがしく」暮らすだけの生活をしたいとも思っていないであろう。
 「いそがしく」暮らすことが、健全で安定していることを、作者は知っている。しかし、自分はそのような暮らしを続けられないということも明白なのだと感じる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

はても見えぬ
真直(ますぐ)の街をあゆむごと
こころを今日は持ちえたるかな

<私の想像を加えた歌の意味>
行きつく先が見えないほど真っ直ぐな街路が続いている。
どんなに先が遠くとも、この真っ直ぐな道を歩いて行こうと決意した。
信じる道をただただ歩き続けようという決意を今日は持つことができた。

<歌の感想>
 「今日は持ちえたるかな」に作者独特の感性を見る。また、それが作品の完成度につながっている。
 このような強い気持ちを、持ち続けることができないと分かっているのだろう。だが、真っ直ぐに歩き続けるという気持ちをいつも持っていたいという啄木の心情が伝わってくる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

秋の風
今日よりは彼(か)のふやけたる男に
口は利(き)かじと思ふ

<私が考えた歌の意味>
今日からは、あのふやけた考えの男に、もう口を利かないと決めた。
秋風の吹く今日からは。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

くだらない小説を書きてよろこべる
男憐れなり
初秋の風

<私が考えた歌の意味>
くだらない小説なのに、本人は傑作が書けたと喜んでいる。
その男が憐れだ。
憐れさを増すかのごとく初秋の風が吹く。

<歌の感想>
 啄木は、くだらないと思う友人へは、攻撃や軽蔑の眼を向けていた。それなのに、この作品では「憐れ」と感じている。周囲の友人に、啄木が今まで以上の距離を感じているように受け取れる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

わが抱(いだ)く思想はすべて
金なきに因(いん)するごとし
秋の風吹く

<私が考えた歌の意味>
私がもつ思想は、すべて私に金がないことが出発点になっているようだ。
そう思い至った時、秋風の吹くのを感じた。

<歌の感想>
 この歌集の今までの作品の内で、最も虚無感を漂わせていると感じる。裏を返せば、金さえあれば、自分の思想はすべて変わってしまうということになる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

男とうまれ男と交わり
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁む

<私が考えた歌の意味>
男子と生まれて、男子の中で生きてきた。
男としての戦いに負けている。
男子らしく強く生きられぬゆえか、秋がわが身に沁みる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

女(をんな)あり
わがいひつけに背(そむ)かじと心を砕く
見ればかなしも

<私が考えた歌の意味>
女がいる。
私の言いつけに背かないようにしようと、いつも心を砕く女がいる。
そういう様子を見ると、かなしくなる。

<私の想像を加えた歌の意味>
私の周囲には何人もの女性がいる。
どの女性も男である私に従おうと、いつも気を遣っている。
男の言いつけばかりに心を砕く日本の女性を見ると、かなしくなる。

<歌の感想>
 ある一人の女のことを詠んでいるととらえることもできる。
 だが、妻も含めて、作者と特別な関係にある女のいじらしさを描いているようには感じられない。
当時の日本の女性の実態を描いていると受け取った。男に従う女を「かなしも」ととらえるのは、当時としては先進的な感覚だったと思う。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

いらだてる心よ汝(なれ)はかなしかり
いざいざ
すこし欠伸(あくび)などせむ

<私が考えた歌の意味>
いらだった心よ、おまえはかなしいよ。
いざいざ、すこしあくびなどしてみよう。

<私の想像を加えた歌の意味>
いらだちが抑えられない。
いらだった心のままでいるのは、かなしい気分になってくる。
さあさあ、この気分を変えようではないか。
すこし、あくびでもして、おおらかになってみよう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

顔あかめ怒りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな


<私の想像を加えた歌の意味>
顔を真っ赤にして怒ったことが、次の日になると、それほどのことではなかったと思える。
怒りが中途半端に消えてしまった。
怒りが治まってしまう自分がなんとなくさびしい。

<歌の感想>
 啄木にとっては、怒りは大切にしたい感情なのだろう。純粋な怒りに身を任せることができなくなるさびしさが描かれている。怒りや悲しさを負のものととらえないところがおもしろい。激しく怒ることは、相当なエネルギーを必要とすることを改めて思う。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

庭石に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒りいとしも

<私の想像を加えた歌の意味>
怒りにまかせて時計を庭石に、はたと投げつけた。
昔の私は純粋な怒りを抑えることができなかった。
今の私はどうだろう。
怒りのあまり時計を庭石に投げつけるようなことはしない。
昔の私に戻りたい。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

放たれし女のごときかなしみを
よわき男も
この日今知る

<私の想像を加えた歌の意味>
稼ぐ手立ても助けてくれる人もいない女が家から出された。
そんな女のかなしみを、よわい男も感じている。
この日の今、私は、心細く頼りないかなしみを突きつけられている。

<歌の感想>
 今の時代では、当てはまらない面もある比喩表現だ。この作品の中心ではないが、当時の社会で、女性が独りで生きていくことの困難さを感じる。

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