斉藤茂吉『赤光』「おくに」より


あのやうにかい細りつつ死にし汝(な)があはれになりて居りがてぬかも

あんなに腕も細くなって、死んでいった。
おまえの一生を思うと、たまらない思いが満ちてくる。
なきがらの傍にいるにさえ私には耐えらえない。


この世にも生きたかりしか一念(いちねん)も申さず逝(ゆ)きしよあはれなるかも

もっと生きていたいと思っていただろう。
生きたい、と口にすることなく、おまえは逝ってしまった。
そんなおまえの気持ちを思うことしかできない。


にんげんの現実(うつつ)は悲ししまらくも漂ふごときねむりにゆかむ

生きている人間がなすべきことはいつもと変わらない。
どんなにおまえの死に打ちのめされようと、眠らなければ生きていけない。
現実には眠ってしまう。漂うように浅い眠りであっても。


生きている汝(なれ)がすがたのありありと何に今頃見えてきたるかや

生きているおまえの姿がありありと思い浮かぶ。
なぜ、今、おまえの姿がこんなにはっきりと浮かぶのか。
きっかけもないのに。



 意訳の中では、「あはれ」「悲し」は訳すことができなかった。原文を味わうしかない。


 亡くなった「おくに」本人の悲しみを、作者は自己のもののように感じている。そして、残された自分の辛さを表出している。さらに、亡くなった人へ語りかける気持ちが伝わる。
 短歌は、自己の感情を描くだけでなく、相手へのはたらきかけと交流の役割を担っていると感じさせる。相聞挽歌としてのはたらきは、柿本人麻呂の作品に色濃いが、近代の斉藤茂吉の中にもその意識を感じる。