万葉集 巻二 219 吉備津采女が死んだ時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌 (217~219)※以前の記事を改めた。 

そら数ふ 大津の児が 逢ひし日に 凡に見しくは 今ぞ悔しき
そらかぞう おおつのこらが あいしひに おおにみしくは いまぞくやしき

<私の想像を加えた歌の意味>
大津の乙女に会うことがありました。
その時は、何も考えずにどうということもなく会って別れました。
いまさら、取り返しはつきません。
でも、いまになって後悔しています。

<歌の感想>
 以前の記事では、次のように書いた。

 采女の呼び方が、長歌と短歌のそれぞれで違っているが、217、218、219の采女を同一人と受け取り、意訳した。
 この長歌と短歌は、それぞれに調べは美しいが、理解は難しい作だ。
 長歌は、人麻呂とはほとんどつながりのない一人の采女の死に際しての儀礼的な作と考えることもできる。そうであるなら、采女の夫から依頼されたものという説が当たっている。
 しかし、短歌では夫の悲しみを察している表現はない。むしろ人麻呂自身の思いが伝わってくる。短歌の采女の死を入水死として味わいたいほどである。
 
 今回は、違った印象を受けた。
 この長歌と短歌には、人麻呂の思想が表れている。人の命は、消えるもの、突然に消えるもの、という思想だ。そして、それは恐れるものではなく、「さぶし」と表現できるものだ。
 一見、人の命のはかなさを説いているようだ。しかし、人麻呂の作には、説法や教えは感じられない。命とは、命が尽きるとは、どういうことなのかを表現しているのみと感じる。