万葉集 巻二 138 139 140 或る本の歌一首と短歌
138
石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つのうらをなみ うらなしと ひとこそみらめ
潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも
いさなとり 海辺をさして 柔田津の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻
いさなとり うみへをさして にきたつの ありそのうえに かあおくおうる たまもおきつも
明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ來寄れ
あけくれば かぜこそきよれ ゆうされば かぜこそきよれ
波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす なびき我が寝し しきたへの 妹が手本を
なみのむた かよりかくよる たまもなす なびきわがねし しきたえの いもがたもとを
露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへりみすれど
つゆしもの おきてしくれば このみちの やそくまごとに よろづたび かえりみすれど
いや遠に 里離りぬ来ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし わが妻の児が
いやとおに さとさかりきぬ いやたかに やまもこえきぬ はしきやし わがつまのこが
夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む なびけこの山
なつくさの おもいしなえて なげくらん つののさとみん なびけこのやま
139
石見の海 打歌の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのうみ うつたのやまの このまより わがふるそでを いもみつらんか
<私が考えた歌の意味>
138
石見の海には船を泊めるよい入り江がないと見られている。
石見の海にはよいひがたがないと見られている。
よい入り江がなくとも、よいひがたがなくともよいではないか。
石見の海では、柔田津の荒磯の辺りに生える真っ青な海藻が海辺に打ち寄せる。
朝には波が立って海藻を海岸に寄せるし、夕には風が海藻を海岸に寄せる。
共に寝た妻の腕は、波になびく海藻のように私にぴったりと寄り添っていた。
その愛しい妻を置いて来たので、この山道の曲がり角ごとに振り返って見る。
振り返るたびに、妻の里はいよいよ遠くなり、ますます高くなる山を越えて来た。
我が妻も、私のことを恋しく思い、嘆いているであろう。
その妻の里を見たい、平らになれ、この山よ。
139
石見の海の打歌の山の木の間から、恋しい妻に届けと袖を振った。
離れはしたが、恋しい思いで振った私の袖を、妻は見たであろうか。
<歌の感想>
異伝というのか、一部分だけが違う歌に注目したことがなかった。しかし、こういう一部分だけが違う歌もよく読むとおもしろい。
138は、132の異伝とされるが、132よりも分かりやすくなっている気がする。分かりやすくはなっているが、説明的でもある。どちらがよいとは簡単には言い切れない。この語を変えるだけで作品としてよくなるなどという言い方をよく聞くが、そんなものではないと思う。部分の違いが作品全体に影響するので、一部分が異なれば違う作品として味わうべきだと思う。
138は、長歌としてよく整理された表現になっていると感じる。整理されているだけに、後半の残してきた妻との別れを惜しむ気持ちがそれほど強く感じられない。132の方が、妻のことを思う気持ちが未練も交えてよく伝わってくる。
138
石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つのうらをなみ うらなしと ひとこそみらめ
潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも
いさなとり 海辺をさして 柔田津の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻
いさなとり うみへをさして にきたつの ありそのうえに かあおくおうる たまもおきつも
明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ來寄れ
あけくれば かぜこそきよれ ゆうされば かぜこそきよれ
波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす なびき我が寝し しきたへの 妹が手本を
なみのむた かよりかくよる たまもなす なびきわがねし しきたえの いもがたもとを
露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへりみすれど
つゆしもの おきてしくれば このみちの やそくまごとに よろづたび かえりみすれど
いや遠に 里離りぬ来ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし わが妻の児が
いやとおに さとさかりきぬ いやたかに やまもこえきぬ はしきやし わがつまのこが
夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む なびけこの山
なつくさの おもいしなえて なげくらん つののさとみん なびけこのやま
139
石見の海 打歌の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのうみ うつたのやまの このまより わがふるそでを いもみつらんか
<私が考えた歌の意味>
138
石見の海には船を泊めるよい入り江がないと見られている。
石見の海にはよいひがたがないと見られている。
よい入り江がなくとも、よいひがたがなくともよいではないか。
石見の海では、柔田津の荒磯の辺りに生える真っ青な海藻が海辺に打ち寄せる。
朝には波が立って海藻を海岸に寄せるし、夕には風が海藻を海岸に寄せる。
共に寝た妻の腕は、波になびく海藻のように私にぴったりと寄り添っていた。
その愛しい妻を置いて来たので、この山道の曲がり角ごとに振り返って見る。
振り返るたびに、妻の里はいよいよ遠くなり、ますます高くなる山を越えて来た。
我が妻も、私のことを恋しく思い、嘆いているであろう。
その妻の里を見たい、平らになれ、この山よ。
139
石見の海の打歌の山の木の間から、恋しい妻に届けと袖を振った。
離れはしたが、恋しい思いで振った私の袖を、妻は見たであろうか。
<歌の感想>
異伝というのか、一部分だけが違う歌に注目したことがなかった。しかし、こういう一部分だけが違う歌もよく読むとおもしろい。
138は、132の異伝とされるが、132よりも分かりやすくなっている気がする。分かりやすくはなっているが、説明的でもある。どちらがよいとは簡単には言い切れない。この語を変えるだけで作品としてよくなるなどという言い方をよく聞くが、そんなものではないと思う。部分の違いが作品全体に影響するので、一部分が異なれば違う作品として味わうべきだと思う。
138は、長歌としてよく整理された表現になっていると感じる。整理されているだけに、後半の残してきた妻との別れを惜しむ気持ちがそれほど強く感じられない。132の方が、妻のことを思う気持ちが未練も交えてよく伝わってくる。