万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2019年03月

万葉集 巻三 260 或る本の歌に言う 

天降りつく 神の香具山 うちなびく 春さり来れば

あもりつく かみのかぐやま うちなびく はるさりくれば

桜花 木の暗茂に 松風に 池波たち
さくらばな このくれしげに まつかぜに いけなみたち 

辺つへに あぢむら騒き 沖辺には 鴨つま呼ばひ 
へつへに あじむらさわき おきへには かもつまよばい 

ももしきの 大宮人の まかり出て 漕ぎける舟は
ももしきの おおみやひとの まかりでて こぎけるふねは

梶も なくてさぶしも 漕がむと思へど
さおかじも なくてさぶしも こがんとおもえど

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山に春がきた。
香具山の麓の池の周りに桜が咲き、木暗いほどだ。
池には松風が吹き渡り、池の面に波が立っている。
岸辺に、あじ鴨の群れが騒ぎ、沖に、雄鴨が妻を呼び鳴いている。
明るい春の景色、昔の都にふさわしい。
それなのに、昔の大宮人が漕いだ舟は、棹も梶もなく、寂しい。
昔のように、漕ごうと思うけれども。


※巻三 257 <私の想像を加えた歌の意味>
香具山に、春に来て景色を眺めた。

香具山の麓の池では、松の木を渡って風が吹き、池の面に波が立っている。
池のまわりには木暗いほどに桜の木が茂り、盛んに花を咲かせている。
池の沖では鴨が妻を呼び、岸の方ではあじ鴨の群れが騒いでいる。
いかにも明るい春の景色であり、昔の都にふさわしい華やかさだ。
それなのに、昔の大宮人が遊んだ舟は、梶も棹もなく、漕ぐ人もいない。
やはり、ここに昔の都の賑わいを求めることはできない。

<歌の感想>
 260の方が、何度もあるいは幾人もによって、推敲されたように感じる。修辞上から見れば、260が257よりも洗練されているといえる。しかし、歌の調子から見ると、260が257よりも上だとは感じられない。このあたりに、一部分しか違わない二首の長歌が万葉集に取り上げれれている理由がある、と感じる。
 

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

<私が考えた歌の意味>
窓辺の手すりに寄りかかって外を見ています。
今の私の心は、物思いでいっぱいです。
悩みのつきないこの身を手すりにもたせて、小萩をわたってくる秋の風を感じています。

※四つの記事になっていたものを統一し、一部を改めた。

万葉集 巻二 199 高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのえ)の殯宮(ひんきゅう)の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌

※長歌全体を四段に区切って考えた。区切り方は、新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店によった。

※第一段

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに恐き
かけまくも ゆゆしきかも いわまくも あやにかしこき

明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を
あすかの まかみのはらに ひさかたの あまつみかどを

恐くも 定めたまひて 神さぶと 岩隠ります
かしこくも さだめたまいて かんさぶと いわかくります

<私の想像を加えた歌の意味>※第一段
高市皇子の父であられる天武天皇は、明日香の真神の原に、宮殿をお造りになり、お亡くなりになられた。


※第二段

やすみしし 我が大君の 聞こしめす 背面の国の
やすみしし わがおおきみの きこしめす そとものくにの

真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の
まきたつ ふわやまこえて こまつるぎ わざみがはらの

行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひて
かりみやに あもりいまして あめのした おさめたまいて

食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
おすくにを さだめたもうと とりがなく あずまのくにの

御軍土を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと
みいくさを めしたまいて ちはやぶる ひとをやわせと

まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任けたまへば
まつろわぬ くにをおさめと みこながら まけたまえば

大御身に 太刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし
おおみてに たちとりはかし おおみてに ゆみとりもたし

御軍土を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は
みいくさを あどもひたまい ととのうる つづみのおとは

雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も
いかずちの こえときくまで ふきなせる くだのおとも

あたみたる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
あたみたる とらかほゆると もろひとの おびゆるまでに 

ささげたる 旗のまねきは 冬ごもり 春さり来れば
ささげたる 旗のまねきは ふゆごもり はるさりくれば

野ごとに 付きてある火の 風のむた なびかふごとく
のごとに つきてあるひの かぜのむた なびこうごとく

取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に
とりもてる ゆはずのさわき みゆきふる ふゆのはやしに

つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く
つむじかも いまきわたると おもうまで ききのかしこく

引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ 
ひきはなつ やのしげけく おおゆきの みだれてきたれ 

まつろわず 立ち向かひしも 露霜の 消なば消ぬべく 
まつろわず たちむかいしも つゆしもの けなばけぬべく 

行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎宮ゆ 
ゆくとりの あらそうはしに わたらいの いつきのみやゆ

神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず
かんかぜに いふきまどわし あまぐもを ひのめもみせず

常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
とこやみに おおいたまいて さだめてし みずほのくにを

神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の
かんながら ふとしきまして やすみしし わがおおきみの

天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと
あめのした もうしたまえば よろずよに しかしもあらんと

<私の想像を加えた歌の意味>※第二段
天武天皇は、高市皇子に、まだ従わない国を治めよと命じられた。
高市皇子は、自ら太刀を身につけ、弓を持たれて、軍勢に号令される。
その軍勢の太鼓の音は雷鳴のごとく、角笛の音は虎の咆哮のごとく、敵を怯えさせる。
その軍勢の掲げる旗は春の野火のごとく、弓の唸りは冬のつむじ風のごとく、放つ矢は大雪のごとく、敵を攻める。
敵も命を惜しまず刃向かうが、神風が吹き渡り、ついに高市皇子の率いる軍勢が、敵を打ち負かした。


※第三段
木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子御門を
ゆうはなの さかゆるときに わがおおきみ みこのみかどを

神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も
かんみやに よそいまつりて つかわしし みかどのひとも

白たへの 麻衣着て 埴安の 御門の原に
しろたえの あさごろもきて はにやすの みかどのはらに

あかねさす 日のことごと 鹿じもの い這ひ伏しつつ
あかねさす ひのことごと ししじもの いはいふしつつ

ぬばたまの 夕に至れば 大殿を 振り放け見つつ
ぬばたまの ゆうへにいたれば おおとのを ふりさけみつつ

鶉なす い這ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば
うずらなす いはいもとおり さもらえど さもらいえねば

春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
はるとりの さまよいぬれば なげきも いまだすぎぬに

思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ
おもいも いまだつきねば ことさえく くだらのはらゆ

神葬り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を
かんはぶり はぶりいませて あさもよし きのえのみやを

常宮と 高くしたてて 神ながら 鎮まりましぬ
とこみやと たかくしたてて かんながら しずまりましぬ

<私の想像を加えた歌の意味>※第三段
めでたく栄えていた、その高市皇子が亡くなられた。
従者たちは昼夜を問わず、嘆き悲しむ。
悲しみも憂いもまだ消えないが、亡き皇子は城上の宮に葬られた


※第四段
然れども 我が大君の 万代と 思ほしめして
しかれども わがおおきみの よろずよと おもおしめして

作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや
つくらしし かぐやまのみや よろずよに すぎんとおもえや

天のごと 振り放け見つつ 玉だすき かけて偲はむ
あめのごと ふりさけみつつ たまだすき かけてしのわん

恐くありとも
かしこくありとも

<私の想像を加えた歌の意味>
わが高市皇子がお造りになられた香具山の宮は、永遠になくならないと思われる。
これからも香具山の宮を仰ぎ見て、いつまでも高市皇子を偲ぶことだろう。

<歌の感想>※199の長歌全体
 一句一句に沿って意味をとっていくと、うまくつながらない所がある。歌の意味というよりも、要点を押さえるつもりで考えた。
 口語訳を参考に、要点を押さえて、原文を音読すると、天武天皇と高市皇子の二人の指導者の姿が浮かび上がってくる。韻文でありながら、歴史と歴史上の人物の偉業が表現されている。
 なぜ、歌という形式で、このような表現が可能なのか不思議でさえある。スケールの大きさと指導者の死を崇高に描くことができているのは確かだと思う。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

なにとなく君に待たるるここちして出でし花の野の夕月夜かな

<私が考えた歌の意味>
なんとなくあなたが待っているような気がします。
あなたに逢おうと外へ出ます。
外を歩くと、花咲く野に、夕月がかかります。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

人にそひて樒(しきみ)ささぐるこもり妻母なる君を御墓(みはか)に泣きぬ

<私が考えた歌の意味>

わたしはまだあなたの妻とは呼んでもらえない。
その私が人に紛れるように樒をささげる。
あなたを生んだ人のお墓の前で、娘とはいえない私が泣いている。


<私の想像を加えた歌の意味>
あなたのお母さんが亡くなった。
許されていれば、私の義理の母でもあるあなたのお母さんが。
墓参りをするが、あなたの妻としてお墓にお線香を上げることはできない。
人に隠れるようにお線香を上げる。
あなたの妻と認められていれば、娘としてお墓にお参りできたのに。
母とは呼べぬ母を思い、ひそかに涙を流す。
 

<感想>
「まだ母と呼べない人の墓参り君を生みし人に樒ささげる」 チョコレート語訳みだれ髪 俵万智

 訳を読まなければ、意味が理解できなかった。この意味がふさわしいなら、晶子の歌の意味をとるのはやはりむずかしい。それと同時に、複雑な関係を一首に詠み込む才能に驚く。

 訳を読まなければ、意味が理解できなかった。この意味がふさわしいなら、晶子の歌の意味をとるのはやはりむずかしい。それと同時に、複雑な関係を一首に詠み込む才能に驚く。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

郷人(さとびと)にとなり邸(やしき)のしら藤の花はとのみに問ひもかねたり

<私が考えた歌の意味>
となりのやしきのしら藤の花は咲いたかしら。
でも、里の人に、となりのしら藤の花は、咲きましたかとだけ尋ねることもできない。

<私の想像を加えた歌の意味>
となりに住むあの方はどうしているかしら。
でも、直接訪れることはできない。
里の人に、それとなく訊いてみようかしら。
でも、なんて訊けばいいのだろう。
そうだ、となりのやしきには、見事なしら藤があった。
しら藤の花は咲きましたか、と訊いてみようかしら。
でも、いきなり、しら藤の花のことだけを訊くのも、なんだかわざとらしい。

くれの春隣すむ画師(ゑし)うつくしき今朝山吹に声わかかりし

<私が考えた歌の意味>
隣に住んでいる画家さんは、美形です。
今朝は、庭の山吹が咲き、あの画家さんの声が聞こえます。
季節は晩春、その声は、季節にも容姿にふさわしく若々しいのです。

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