万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2018年11月

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

<私が考えた歌の意味>
二日前に山の絵を見た。
その絵を見た時はそんなことは思わなかった。
今朝になって、急に恋しくなった、ふるさとの山を。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷の山を見たい。
今朝、急にそう思う。
故郷にいるときはなんのへんてつもない山として見ていたのに。
どうして急に故郷の山が見たくなったのだろう。
そうか、二日前に山の絵を見ていた。
もちろん、その絵は私の故郷の山を描いたものではない。
私にとって、山とは、すべて故郷の山が元になっているのだろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わかれおれば妹いとしも
赤き緒の
下駄など欲しとわめく子なりし

<私が考えた歌の意味>
別れていると、妹のことが恋しくなるよ。
どんな妹だったかというと、うまくいえないのだが‥‥。
赤いはなおの下駄が欲しい、とわめく子だったよ、妹は。

<歌の感想>
 故郷には、家族がいる。家族の中には妹もいる。故郷の家族から離れていると、妹のことをときに恋しく思う。妹とは特別に仲がよかったかというと、そうでもない。妹のことで思い出があるかといえば、それも特別なことはない。ただ妹が幼い頃にわめいて物を欲しがっていた様子くらいしか思い出せない。でも、そのどこにでもあるような暮らしの思い出が、今は貴重なものに思える。そんな作者の思いが伝わってくる。
 兄妹との関係に理屈はない。成長も発展もない。互いに年齢を重ねても、妹も兄も幼い頃に戻ってしまう。家族とは、兄妹とは、そういうものなのだ。
 啄木は、家族と離れ、妹とも長く会っていないのであろう。変化も成長もない家族の中に、啄木が埋没することはない。家族の中に埋没することはないが、家族の中で暮らす喜びを、否定することもない。むしろその失われつつある家族のつながりを、啄木は失いたくないと思っているように感じる。

万葉集 巻三 251 柿本朝臣人麻呂の旅の歌八首(249~256)

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
あわじの のしまのさきの はまかぜに いもがむすびし ひもふきかえす

<私が考えた歌の意味>
淡路の野島の岬に浜風が吹く。
吹き寄せる浜風に私の着物の紐が吹き返される。
旅立つときに、妻が結んでくれた紐が吹き返される。

<私の想像を加えた歌の意味>
着物の紐が風に吹かれなびく。
ここは、淡路の野島の岬。
長い旅を経て、ここまでやってきた。
淡路の野島に吹く浜風は強い。
旅立ちの折に、無事を祈って妻が結んでくれた紐が浜風に吹き返される。
はるか離れている妻のことを思う。
妻も私のことを思っているだろう。
ここは、淡路の野島の岬。

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