万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2018年09月

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

亡(な)くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る

<私の想像を加えた歌の意味>
昔、先生から地理の本をいただいたことがあった。
その本を私にくださった先生は、すでに亡くなっている。
その地理の本を使うことは、今はない。
だが、その古くなった地理の本を今でも本棚に並べてある。
必要があって読もうというのではないが、時々その本を取り出すことがある。
そこからは、故郷の学生時代のこと、懐かしい先生のことが浮かび上がって来るから。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
三年(みとせ)聴かざり

<歌の感想>
 歌の意味は、短歌表現のそのままだ。こういう作を見ると、啄木を天才歌人だとつくづく感じる。思ったことそのままを五・七・五・七・七にしているように感じる。それでいて、説明的でもなければ、平凡でもない。
 これほど、懐かしく思い出すふるさととは、なんなのだろう。そして、現実的には、そのふるさとに戻り、そこで暮らそうとしないのは、なんなのだろう。
 これは、啄木だけでなく、時代を超えて私たちに問われている課題だ。ふるさとには、限られた仕事しかなくて、若い人々の生活の受け皿がないというだけのことではない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

やまひある獣(けもの)のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

<私が考えた歌の意味>
まるで病気の獣のように誰にでも歯向かっていく。
それが、私の今の精神の状態だ。
そんな私の精神だが、ふるさとのことを聞けば、落ち着き静かになる。

<私の想像を加えた歌の意味>
自分でも自分の心を持て余してしまう。
何にでも苛立ち、誰にでも歯向かって行く。
まるで病気の獣のような私の心が、静まるときがある。
それが、故郷のことを知らされるときだ。
些細なことでも、故郷についての話題を聞くとき、故郷のことを想うとき。
そのことだけが、私の心は静め、穏やかにする。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴きにゆく

<私が考えた歌の意味>
こうやって都会に住んでいると、故郷の方言がなつかしくなる。
駅の人ごみの中には、いろいろな地方から出て来る人々がいる。
その中には、私の故郷から来た人もいるはずだ。
故郷の方言が駅では聴こえてくるはずだ。
故郷の方言を聴きたくて駅に行く。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷が懐かしい。
だが、帰郷しようとは思わない。
戻ったところで、故郷で過ごした時間は戻らない。
駅の人ごみの中では、故郷のなまりが聴こえることがある。
今日はそれを期待して駅に行ってみよう。
故郷は懐かしいが、戻ることはできないし、戻ろうとも思わない。
駅の人ごみの中で、聴こえてくる訛だけで、今の私には十分だ。

「煙」一 に共通するもの ※「煙」の章は、一と二に分かれている。ここまでが、一で以降が二。

 学生時代の将来への希望がことごとく破られていく様子が感じられる。若い頃の精神を持ち続けることができないのは、作者自身の精神の在り方のせいでもあろう。そして、若者の熱情をたちまちのうちに冷ましてしまう都会の現実のせいでもあろう。
 「煙 一」の作品のすべてが、学校を卒業し、故郷を出ると驚くほどの短期間で若者が、現実の前で無力になっていく様が描かれていると思う。 次の作青空には、その代表だと思う。

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

 啄木の時代は、学生は現実の非情さから隔離されている面があった。故郷にいた間、学校にいた間は気づかなかったが、そこから一歩外へ出てみると、学生時代の苦労のなさと故郷の懐かしさが身に沁みるのだと思う。
 次の作盛岡のからは、作者が、学生時代を心から懐かしんいることが伝わってくる。

盛岡の中学校の
バルコンの
手摺に最一度われを倚らしめ

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

糸きれし紙鳶(たこ)のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな

<私の想像を加えた歌の意味>
若いころの心はもうない。
まだ数年しか経っていなのに。
学生時代のことが、故郷でのことが、あの頃の心の瑞々しさが消えてしまった。
まるで、糸の切れたたこのように、どこかに飛んでいってしまった。
若いころの真剣な熱情が、軽い軽いものになってどこかに飛び去ってしまった。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日

<私の想像を加えた歌の意味>
今日も平凡な一日だった。
楽しいことなどない一日が過ぎていく。
なぜ、そんなことを思い出したのか、自分でもわからない。
故郷での学生時代のこと。
わが恋をはじめて友にうち明けた夜のこと。
その夜の友とのやりとりとその時の気持ちを思い出した。
あの頃の気持ちと今とを比べると、あまりにも違う気がする。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず

<私が考えた歌の意味>
私の妻は、若い頃は音楽が好きで、将来は音楽にかかわることをしたいと願っていた。
それなのに、今は、歌さえ歌うことがない。
妻の夢は、叶わなかった。

<歌の感想>
 妻のことを題材にしているが、夢を諦めた妻自身の心情を表現しているのではないと思う。自分の妻を題材としながら、若い頃の希望を実現できない現実と、その現実に圧し潰される庶民の悲しみを感じる。
 これは、「煙」全体を通して感じることのできるテーマだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

近眼(ちかめ)にて
おどけし歌をよみ出でし
茂雄の恋もかなしかりしか

<私の想像を加えた歌の意味>
茂雄は近眼で分厚い眼鏡をかけていた。
どこかおどけた短歌をよく作っていた。
その茂雄の真剣な恋は実らなかった。
失恋を茂雄はひょうきんに話していた。
今、思い出すと、その時の茂雄の心中がわかる。
あのころの茂雄の失恋の悲しみが、今、わかる。

万葉集 巻三 247 石川大夫(いしかわのだいぶ)が唱和した歌一首

沖つ波 辺波立つとも 我が背子が み船の泊まり 波立ためやも
おきつなみ へなみたつとも わがせこが みふねのとまり なみたためやも

<私の想像を加えた歌の意味>
沖の方には波が立っているようです。
岸辺にも波が立っています。
でも、御心配はいりません。
あなたのお船の進む航路にも、到着する港にも波の立つことはありません。
あなたの船旅の無事を信じています。

万葉集 巻三 246 長田王(ながたのおおきみ)が筑紫に遣わされ、水島に渡る時の歌二首(245・246)

芦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ
あしきたの のさかのうらゆ ふなでして みずしまにいかん なみたつなゆめ

<私の想像を加えた歌の意味>
今回の長旅はここまで無事であった。
水島の神々しい雰囲気も感じられるようになってきた。
さあ、これから船出する。
船出するのは、芦北の野坂の湾。
あとは水島に到着を待つばかり。
水島までの船旅は、波が荒くなるようなことが決してないことを願う。

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