万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年12月

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

盛岡の中学校の
バルコンの
欄干(てすり)に最一度(もいちど)われを倚(よ)らしめ

<私が考えた歌の意味>
盛岡中学校のバルコニーを思い出す。
あの手すりにもう一度よりかかって、周りを眺めてみたい。
かなうものなら、私をあの場所にもどしてください。

<歌の感想>
 学生時代の情景を描いていながら、その頃の自己を取り戻したいという啄木の思いが伝わってくる。

万葉集 巻二 212 或る本の歌に言う (213~216)

うつそみと 思ひし時に たづさわり 我が二人見し
うつそみと おもいしときに たづさわり わがふたりみし

出で立ちの 百枝槻の木 こちごちに 枝させるごと
いでたちの ももえつきのき こちごちに えださせるごと

春の葉の しげきがごとく 思へりし 妹にはあれど
はるのはの しげきがごとく おもえりし いもにはあれど

頼めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば
たのめりし いもにはあれど よのなかを そむきしえねば

かぎろひの もゆる荒野に 白たへの 天領巾隠り
かぎろいの もゆるあらのに しろたえの あまひれがくり

鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば
とりじもの あさだちいゆきて いりひなす かくりにしかば

我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに
わぎもこが かたみにおける みどりこの こいなくごとに

取り委する 物しなければ 男じもの わきばさみ持ち
とりまかする ものしなければ おとこじもの わきばさみもち

我妹子と 二人我が寝し 枕づく つま屋のうちに
わぎもこと ふたりわがねし まくらづく つまやのうちに

昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし
ひるは うらさびくらし よるは いきづきあかし

嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
なげけども せんすべしらに こうれども あうよしをなみ

大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹はいますと 
おおとりの はがいのやまに ながこうる いもはいますと

人の言へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもぞなき
ひとのいえば いわねさくみて なずみこし 良けくもぞなき

うつそみと 思ひし妹が 灰にていませば
うつそみと おもいしいもが はいにていませば

<私の想像を加えた歌の意味>
妻がこの世にいたときに、手を取り合って、二人で槻の木を眺めました。
妻の姿は、槻の木が豊かに枝を伸ばすようでした。
妻の様子は、豊かな枝が春の葉を青々と茂らすようでした。
妻がいつまでも若々しいままでいることを願っていました。
どのようなときでも頼りになる妻でいてほしいと願っていました。
それなのに、寿命の定めに背くことはできませんでした。
まるで、荒野の空にたなびく白い雲の中に入ったように、妻はこの世からいなくなりました。
まるで、入日が沈むように、妻はこの世からいなくなりました。
妻が形見に残した幼子がなにかほしいのか泣きます。
幼子が泣くたびに、なにをあてがえばよいのかもわからず、男なのに抱きかかえています。
愛する妻と一緒に寝た部屋の中で、昼はしょんぼりと過ごしています。
愛する妻と一緒に寝た部屋の中で、夜はため息ばかりついて眠ることもできません。
嘆いても嘆いても今となっては、どうしようもありません。
どんなに恋しくても、再び逢うことはかないません。
羽易の山にあなたが恋い慕っている妻がいますよと人が言うので、険しい道をここまで来ました。
妻に逢えはしませんでした。
苦労して来たのですが、その甲斐はありませんでした。
私は、この世にいた妻ばかりを思い描いているのです。
その妻は亡くなって、灰になってしまったのです。

<歌の感想>
 210とは、語句の一部が違うのみだ。しかし、213の方が、散文的な意味は通じやすいと感じる。その分、詩としての味わいは失われているような気もする。
 二つの長歌の最後の三句「玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば」(210)と、「うつそみと 思ひし妹が 灰にていませば」(213)を比べても、210の方に情感の豊かさを感じる。

↑このページのトップヘ