万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年10月

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

旅のやど水に端居(はしゐ)の僧の君いみじと泣きぬ夏の夜の月

<私の想像を加えた歌の意味>
旅の宿、僧のあなたは、川面の見える縁側に座っておいでになる。
せっかく、二人で旅に出たのに、僧のあなたは私を見ようともなさらない。
私はただ泣くばかり、外は夏の夜空に月が浮いています。

<歌の感想>
 どんな「旅」であるかは、考えなかった。
 恋愛を許されない僧、その僧に恋する作者、そして夏の夜空に月。事情はどうであれ、旅の宿に二人はいる。そのような情景と、二人の思いが感じられる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

くれなゐの薔薇(ばら)のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな

<私が考えた歌の意味>
唇は、紅の薔薇の花びらの重なり。
この唇に、魂の香りのない歌を詠ませることはさせない。

<私の想像を加えた歌の意味>
紅の薔薇の花びらを重ねると、それが私の唇。
私の唇から生まれる歌は、霊の香り、そのもの。
香りたたない歌など、薔薇の花びらに似つかわしくない。

<歌の感想>
 晶子が求める短歌とは、「霊の香」のするものなのだろう。自らの身体と求める短歌とがつながる所に、晶子の思考と感性を感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

みだれごこちまどひごこちぞ頻(しきり)なる百合ふむ神に乳(ちゝ)おほひあへず

<私が考えた歌の意味>
心は、乱れに乱れ、迷いに迷う。
恋心なぞに惑うことのないあなた。
あなたの前では乳房を覆うこともしません。

<歌の感想>
 作者の片思いのようでいながら、なんとしてでもその思いを遂げようとする強さを感じる。「百合ふむ神」は、恋愛よりも崇高なものを追求している男性を表現していると受け取った。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

ゆあみする泉の底の小百合花(さゆりばな)二十(はたち)の夏をうつくしと見ぬ

<私が考えた歌の意味>
湯船に身を横たえます。
湯に入った体は、泉の底に咲く小百合の花です。
二十の夏を迎えた体は、美しいのです。

<歌の感想>
 裸体を美しいと感じるだけでなく、その若く美しい身体を誇っている気持ちが伝わる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

春雨にゆふべの宮をまよひ出でし子羊君(きみ)をのろはしの我

<私が考えた歌の意味>
春雨の夕べ、子羊のように家を出て来ました。
私を迷う子羊にしてしまうあなたのことが憎らしい。

<歌の感想>
 恋する自己に、陶酔している雰囲気を感じる。この作では、「君」のことよりも、「君」に恋する「我」に主眼が向けられているのを感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

さて責むな高きにのぼり君みずや紅(あけ)の涙の永刧(えいごふ)のあと

<私が考えた歌の意味>
そんなに責めないで、いつまでもいつまでもあなたを思って流した涙のあとを。
あなたは、私の恋心など届かないところにいるのでしょうから。

<私の想像を加えた歌の意味>
私がいつまでもあなたに恋しているのを、あなたは責めている。
あなたは、いつも崇高なことばかり考えているので、恋心などわからないのでしょう。
でも、私が恋して流す涙を責めることだけはしないで。

<歌の感想>
 そんなに澄ましていないで私の方をもっと向いてよ、とちょっとすねてみせている感じを受ける。

万葉集 巻二 198 明日香皇女の城上(きのえ)の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌(196~198)

明日香川 明日だに見むと 思へやも 我が大君の 御名忘れせぬ
あすかがわ あすだにみんと おもえやも わがおおきみの みなわすれせぬ

<私の想像を加えた歌の意味>
もう一度だけでもよいから、お元気なお姿を見たいと切に思う。
そう思うせいであるからか、いつもいつも皇女様のことが頭から離れない。
※「明日香川」と「明日」の部分は散文にせず、意味だけを考えてみた。

新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店の訳を引用する。
「明日香川のようにせめてその明日だけでも逢いたいと思うせいでか我が皇女明日香皇女の御名を忘れることがない」

<歌の感想>
 「明日」という語の縁を言うだけではないように思う。人の命ははかないが、「明日香川」は、これからも変わることなく存在し続ける。ここには、人の命の変化と自然の不変性の対比がある。
 また、明日香川の美しく穏やかな流れを見る度に、これから先いつまでも明日香皇女様を思い出すであろうと、これから先のことを想起している。亡き人の記憶が将来も続くという、時間の流れとしては非常に複雑なことを描いている。
 記憶の中の死者の存在と、その記憶が何によって呼び覚まされるかを描くのは、この作だけでなく、人麻呂の短歌の特徴だと感じる。 

万葉集 巻二 197 明日香皇女の城上(きのえ)の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌(196~198)
明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 流るる水も のどかにあらまし
あすかがわ しがらみわたし せかませば ながるるみずも のどかにあらまし

<私の想像を加えた歌の意味>
明日香川に堰を作ったなら水の流れもゆっくりしていただろうに。
川ならば堰を作るように、皇女様のご様子にいつも気を配っていたなら、こんなに早くお命の尽きることもなかったろうに。

<歌の感想>
 命が失われてしまってから、命の短さを悔やんでもしかたのないことだ。しかたのないことであり、取り返しのつかないことだが、なんとかできなかったかという思いは尽きない。
 川の流れを描きつつ、短かった命を惜しむやりきれなさが表現されている。

万葉集 巻二 196 明日香皇女の城上(きのえ)の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し
とぶとりの あすかのかわの かみつせに いしばしわたし

下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける
しもつせに うちはしわたす いしばしに おいなびける

玉藻ぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをれる
たまもぞ たゆればおうる うちはしに おいおれる

川藻ぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の
かわもぞ かるればおゆる なにしかも わがおおきみの

立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく
たたせば たまものもころ こやせば かわものごとく

靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや
なびかいの よろしききみが あさみやを わすれたもうや

夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に
ゆうみやを そむきたもうや うつそみと おもいしときに 

春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし
はるえには はなおりかざし あきたてば もみちばかざし

しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 
しきたえの そでたずさわり かがみなす みれどもあかず

望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき
もちづきの いやめずらしみ おもおしし きみとときどき

出でましし 遊びたまひし 御食向かふ 城上の宮を
いでましし あそびたまいし みけむこう きのえのみやを

常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ
とこみやと さだめたまいて あじさわう めこともたえぬ

しかれかも あやに哀しみ ぬえ鳥の 片恋づま
しかれかも あやにかなしみ ぬえどりの かたこいづま

朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて
あさどりの かよわすきみが なつくさの おもいしなえて

夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば
ゆうつづの かいきかくいき おおぶねの たゆとうみれば

慰もる 心もあらず そこ故に せむすべ知れや 
なぐさもる こころもあらず そこゆえに せんすべしれや

音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く
おとのみも なのみもたえず あめつちの いやとおながく

偲ひ行かむ 御名にかかせる 明日香川 万世までに
しのいいかん みなにかかせる あすかがわ よろずよまでに

はしきやし 我が大君の 形見にここを 
はしきやし わがおおきみの かたみにここを

<私の想像を加えた歌の意味>※修辞の部分は省き、歌の意味だけをとらえた。
皇女様は、あんなに仲良く暮らしておられた夫君をのこしてお亡くなりになられた。
皇女様と夫君とは、季節の美しさをともにいつも楽しまれておられた。
皇女様を亡くされた夫君は、たまらなく悲しそうで落ち着かないご様子でいらっしゃいます。
亡き皇女様のお名前でもあるこの明日香川を訪れる度に、明日香皇女様を永遠に思い出すことでしょう。

<歌の感想>
 長歌の冒頭で、生きているときの皇女の様子を、川藻にたとえて表現している。このたとえがどれほどの効果を上げているかは、現代ではわからない。しかし、こういう比喩が人麻呂の独創であるとするならば、画期的なことだと思う。
 万葉の時代の人々が、藻に美しさと豊かさを感じていることはこの長歌の他でも表現されている。
 挽歌の中で、藻を比喩とした歌はどれくらいあるのか、今後注意して読んでいきたい。いずれにしても、故人の生前の様子の表し方に人麻呂の個性が表れていると思う。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

御相(みさう)いとどしたしみやすきなつかしき若葉木立(わかばこだち)の中(なか)の盧舎那仏(るしゃなぶつ)

<私が考えた歌の意味>
若葉の繁る木々の中に盧舎那仏がお姿を見せている。
盧舎那仏のお顔は、たいそう親しみやすく、どこか懐かしさを感じさせる。
※奈良東大寺の大仏(盧舎那仏)として、意味を取った。

<歌の感想>
 仏像を鑑賞しているだけではないものを感じる。仏像としてのお顔にとどまらず、仏様が優しく穏やかなお顔で語りかけてくるような気持ちにさせられる。
 この短歌に、晶子の確かな描写力を見ることができる。こういう正確な描写力が感覚的な表現法を支えていると感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

雨みゆるうき葉しら蓮(はす)絵師の君に傘まゐらする三尺の船

<私が考えた歌の意味>
雨の池を白蓮の葉が覆っている。
小舟で絵師のあなたは、白蓮を描いている。
私は、小舟のあなたに傘を差しかけます。

<歌の感想>
 幻想的な光景だ。
 雨もようの池か堀に浮く小舟で、若い絵師が一心に写生をしている。作者は、水面の蓮と絵師の姿に心を奪われる。
 じっとその情景を見つめているだけでは飽き足らない。その絵師が、傘を差しかけた晶子に気づいてほしいという気持ちを感じる。

みだれ髪 臙脂紫 以前の記事を改めた

髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ

<私が考えた歌の意味>
豊かな髪が、水に浮き、柔らかく広がります。
髪は、といたなら広がりますが、乙女心はそうはいきません。
乙女心は、そっと隠しておくことにしましょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
長い髪をとき、たっぷりの水に入れます。
結っていた長い髪がとかれて、柔らかく豊かに広がります。
私の心も、束縛をとけば、この髪のように広がっていくでしょう。
でも、そうはできません。
乙女心は、心の内にそっと隠しておきましょう。

<歌の感想>
 髪を洗っているのか、湯船に入っているのか、などはいらぬ詮索だと思う。豊かな黒髪が水に広がる様子を思い描けばそれでよい。
 乙女心を、いつまでも隠しておくという感じはしない。今はまだ解き放つ時期ではありません、という思いなのであろう。

万葉集 巻二 170 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌一首と短歌 或る本の歌一首(167~170から) 巻二 167 168 169 170

島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず

しまのみや まがりのいけの はなちどり ひとめにこいて いけにかずかず


<私の想像を加えた歌の意味>
飼われている鳥に、亡き主人を恋う気持ちがあるのか。
島の宮の勾の池の鳥は、人を恋しがって池に潜らなくなった。

 この短歌を読んだ時に、よくわからないと感じた。水鳥が池に潜らなくなることと皇子の死とが結びつかなかった。しかし、何回か読むうちにこの作を好きになってきた。
 亡くなった日並皇子を思い出すのは、皇子その人の言動だけではない。皇子が住んだ宮殿であり、皇子が散策した庭園であり、皇子が好きだった景色や鳥など、全てが亡き人を思い出させるのであろう。
 人の死は、その人だけでなく、その人がいた風景や空気をも消滅させるということであろう。
 人麻呂は、悲しみと寂しさを、心情を表す語句を一切使わずに表現していると感じる。

万葉集 巻二 195 柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と忍坂部皇子(おさかべのみこ)とに奉った歌一首と短歌

しきたへの 袖かへし君 玉垂れの 越智野過ぎ行く またも逢はめやも
しきたえの そでかえしきみ たまだれの おちのすぎゆく またもあわめやも

<私の想像を加えた歌の意味>
【夫の君を偲ぶ皇女の気持ちになって】
ともに仲睦まじく暮らしたあなたは、越智野で亡くなった。
亡くなったことはわかっているのに、また、どこかでお逢いできると思われてしかたがない。

<歌の感想>
 長歌194と共に味わうべき短歌だと感じる。また、亡くなった皇子との生前の暮らしを思い出す皇女の心情になって、表現していることにも注目すべきだと思う。
 人麻呂自身の思いを表現している挽歌とは、どこか違う感じがする。

 長歌とのつながりがよくわかる訳なので、口訳萬葉集 折口信夫より引用する。
「そんなに尋ねてお歩きになつても、袖をさし交わして寝られたお方は、越智の野原で消えておしまいになつた。また二度とあはれませうか。」

万葉集 巻二 194 柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と忍坂部皇子(おさかべのみこ)とに奉った歌一首と短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は
とぶとりの あすかのかわの かみつせに おうるたまもは

下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 
しもつせに ながれふらばう たまもなす かよりかくより 

靡かひし 夫の命の たたなづく 柔膚すらを 
なびかいし つまのみことの たたなづく にきはだすらを 

剣太刀 身に添へ寝ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ 
つるぎたち みにそえねねば ぬばたまの よどこもあるらん

そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて
そこゆえに なぐさめかねて けだしくも あうやとおもいて

玉垂れの 越智の大野の 朝露に 玉裳はひづち
たまだれの おちのおおのの あさつゆに たまもはひづち

夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 
ゆうぎりに ころもはぬれて くさまくら たびねかもする

逢はぬ君ゆえ
あわぬきみゆえ

<私の想像を加えた歌の意味>※修辞の部分は省き、歌の意味だけをとらえた。
【夫の君の死を悲しむ皇女の気持ちになって】
寄り添って寝ていたあの方は、もうこの世にはおられません。
あの方の柔らかい肌に触れることは、もうできなくなりました。
わかっていても、諦めることができず、もしかしてあの方に再び逢えるかと思います。
あの方の姿を求めて、越智の大野を歩きまわり、そこで夜を過ごすこともあります。
もう、決してお会いできないあの方のために。

<歌の感想>
 亡き皇子を慕う皇女の立場になって詠んだ歌と受け取れる。
 散文にすると、味わいが伝わらないが、原文を読むと、亡き皇子と皇女の睦まじさがしっとりと描かれている。
 死の事実は理解しているが感情では受容できない、その心境が美しく描かれている。

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