万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年09月

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君

<私の想像を加えた歌の意味>
牧場から南へと豊かに川が流れる。
川の流れに沿って、緑の野が広がる。
その野に立つ男。
なんて、その男は、この広々とした光景に似合うことか。

<歌の感想>
 これもまた大胆な構成だ。
 緑いっぱいの牧場と牧場に続くようにどこまでも続く野原が浮かぶ。そして、牧場と見渡す限りの平地をつないでいるのが、川の流れだ。そこに、牧場で働く逞しい男が現れる。男はいかにもその広大な風景に似つかわしい。風景と男が似つかわしいだけでなく、作者は、その男に魅せられていると感じる。

万葉集 巻二 186 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193の内から)

一日には 千度参りし 東の 大き御門を 入りかてぬかも
ひとひには ちたびまいりし ひんがしの おおきごもんを いりかてぬかも

<私が考えた歌の意味>
 一日に何度も出入りをした東の大きな御門なのに、今は入るに入れない気がする。

<歌の感想>
 「入りかてぬかも」に作者の気持ちが表れている。皇子の存命中は、喜んで出入りしていた門なのに、今はその門をくぐることにさえ躊躇するのであろう。また、その門を入り宮の内に入ったとて、自分のためになることは何もないという気持ちも感じられる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

小草(をぐさ)いひぬ「酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女(をとめ)」

<私が考えた歌の意味>
小さな草がささやきかけます。
「恋に酔い、恋の涙を味わい、恋というものを知るでしょう。恋の深みを知るまでは、夢の中にいつづけなさい。」
恋を夢見る少女に、草が言いました。

<歌の感想>
 大胆な構成だ。作者には、眼にしている「小草」の声が聞こえるのであろう。

万葉集 巻二 185 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193の内から)
水伝ふ 磯の浦廻の 石つつじ もく咲く道を またも見むかも
みなつたう いそのうらみの いわつつじ もくさくみちを またもみんかも

<私が考えた歌の意味>
池の周りのつつじがいっぱいに咲いている。
このつつじの咲く庭園の道をまた歩くことがあるだろうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
池は水をたたえ、池の周りにはつつじが今を盛りと咲いている。
皇子様が、生きておられた時に変わらない美しさだ。
だが、この花の咲く庭園を見ることはもうないであろう。
皇子様亡きあとは、全てが失われていく。

<歌の感想>
 初句と二句目の意味は、はっきりとは分からない。しかし、好きな短歌だ。詞書がなければ理解はむずかしいが、詞書がはっきりとしているので、歌の趣意は伝わる。
 亡き皇子のことも、現代風に言うと職を失うかもしれない自分のことも直接は描かれてはいない。だが、皇子の死を悲しむ気持ちと、これからの自分の身を案ずる気持ちがよく表れている。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

春雨にぬれて君来し草の門(かど)よおもはれ顔の海棠の夕

<私が考えた歌の意味>
春雨に濡れて、あなたが、小さな家の門をくぐて来てくれた。
夕べの門の内には、海棠の花が咲いている。
海棠の花は、思われていることを知っている女性のような姿で咲いている。

<歌の感想>
 なんともたくさんのことが詠み込まれている。しかも、珍しく作者自身のことは、それほど表出されていない。晶子の作の中では、客観的に「海棠」を描いていると思う。
 チョコレート語訳 みだれ髪 俵万智 では、「おもはれ顔」をうまく訳している。「春雨に濡れてあなたが来る夕べぽっと恥じらう海棠の花」

万葉集 巻二 184 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193の内から)

東の 多芸の御門に 侍へど 昨日も今日も 召す言もなし

ひんがしの たぎのみかどに さぶらえど きのうもきょうも めすこともなし

<私の想像を加えた歌の意味>
御所の東側の多芸の御門で、皇子様からの呼び出しに備えておりました。
いつものように、お召しがあれば、すぐに応えられるようにしておりました。
昨日も今日も、お召しの言葉がありません。
皇子様は、お亡くなりになったのですから。

<歌の感想>
 この短歌の通りの行動を舎人たちがとったとするなら、御所の中が、皇子の死によって混乱していることになろう。そういうこともあったであろうが、それよりは皇子が亡くなったからと、すぐに宮殿を去って行くような気持ちにはなれないということなのだろう。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

たまくらに鬢(びん)のひとすぢきれし音(ね)を小琴(をごと)と聞きし春の夜の夢

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたの手枕から頭を上げた拍子に、私の髪が一筋切れました。
髪の毛の切れた音が、私にとっては、琴の音に聞こえます。
あの音は、あなたと一緒の春の夜の夢なのでしょうか。

<歌の感想>
 手枕で、髪がもつれて切れたというだけで十分に雰囲気がある。さらに、それを琴の音のように聞くというのは、ちょっとついていけないほどの感覚だ。

万葉集 巻二 183 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193の内から)
わが御門 千代とことばに 栄えむと 思ひてありし 我し悲しも
わがみかど ちよとことばに さかえんと おもいてありし われしかなしも

<私が考えた歌の意味>
私がお仕えしていた皇子の御殿は、永久に栄え続けるだろうと思っていました。
そのように、信じていたことは、今となっては悲しいことです。

<歌の感想>
 この作を現代語訳すると、「信じていた私は悲しい」となる。そうなると、皇子の死を悲しむというよりは、皇子に仕えていた私のこれからを思うと悲しいという受け取り方もできる。
 この二十三首には、主を失った宮廷人の悲しみがどこかしら感じられる。したがって、訳としても次のようになるのがふさわしいと思う。口訳萬葉集 折口信夫 から引用する。
「何も知らないで、何時迄も變りなく、此御所は榮えて行くことゝ思うてゐたことが悲しくてならぬ。」

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

師も友も知らで責めにき
謎に似る
わが学業のおこたりの因(もと)

<私の想像を加えた歌の意味>
先生も友達も私のことを責めた。
なぜ、学業を怠けるようになったのかと。
私自身にも、学業が嫌になった原因は謎であった。

<歌の感想>
 現代に当てはまる現象を詠んでいると思う。学校での勉強が嫌になるということはそこに楽しさや必要性を感じなくなるからだ。
 学業は、元々おもしろおかしいだけのものではないということも正しい。忍耐努力して学業に励んで、報われることがあるなら、それは耐えられる。しかし、我慢して行っても、それが報われないなら、忍耐は忍耐でしかない。
 そのことを、啄木は見抜いていると感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ほとばしるポンプの水の
心地よさよ
しばしは若きこころもて見る

※原文では、「ポンプ」は漢字表記。

<私が考えた歌の意味>
ポンプが勢いよく水を吐き出している。
ほとばしる水の勢いを見て、その音を聞くと、気持ちがいい。
しばらくの間、ポンプのほとばしる水を、若い頃に戻った気持ちで見ていた。

<歌の感想>
 短歌で、近代的な事物を描き出しているのは啄木の特徴と言えるのではないか。この作を読み、次の作と共通する感覚を感じた。
ダイナモの
重き唸(うなり)のここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし
記事 ダイナモの重き唸りの

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

かの旅の汽車の車掌が
ゆくりなくも
我が中学校の友にてありき


<私が考えた歌の意味>
この旅で乗った汽車の車掌が、思いがけなく中学校の時の友達だった。

<歌の感想>
 歌の意味を散文にしてみると、この偶然の事実しか伝わってこない。
 短歌では、車掌の顔を見て、一瞬分からなかったが、直ぐに友達だと気づいた驚きが伝わってくる。それと同時に、中学校の頃のことを次々と思い出している作者の心情が感じられる。友であった車掌の方も作者に気づくが、執務中なので、話し込むわけにはいかない様子も想像できる。
 旅の途中、懐かしい友に偶然会う。この短歌には、旅情と懐旧の情が描かれている。
 啄木は、この短歌で日常の出来事を、そのまま詠んでいるように感じられる。こういう表現のできる人が、「歌人」と呼ばれるにふさわしいのであろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

<私の想像を加えた歌の意味>
もくもくと白い煙が青空に上がっていく。
建物から勢いよく吐き出された煙だが、青空に消えて見えなくなる。
空に吸い込まれるように消えていく。
明るい青空にさびしさだけが残る。
青空にさびしく消えてしまった煙は、まるで私のようだ。

<歌の感想>
 青空にぽっかりと浮かぶ白い雲ではない。煙突からの煙であろうか、とにかく何かが燃えて出る煙だ。
 吐き出されたばかりの煙ではない。最初は勢いがよいが、空にだんだん消えてゆく煙の様子なのだ。
 煙が昇り立つ様子に目を奪われることはある。その煙が消えてゆくまで見続けることはないように思う。まして、消えてゆく煙と自己が似ていると感じる感性は、凡人にはない。啄木独特のものだ。
 青空と煙に、さびしさを描いているこの作が好きだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

己(おの)が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術(すべ)なし

<私が考えた歌の意味>
自分の名前を、小さく声に出してみる。
それだけで、涙が落ちる。
そんな多感な十四歳の自分にかえることはもうできない。

<歌の感想>
 十四歳の頃を思い出し、あの頃にはもう戻れないと感じることは多くの人にあると思う。
 この短歌の特徴は、若い頃を懐かしむというよりは、その十四歳の頃の思い出の描き方にある。理由や背景には触れずに、自分の名前を呼ぶという行為が描かれる。そして、その行為に「涙せし」がつながる。自分の名前を呼び、それだけのことに泣く、この感覚がなぜか伝わってくる。

万葉集 巻二 182 日並皇子尊(草壁皇子)の宮の舎人たちが泣き悲しんで作った歌二十三首(171~193の内から)
とぐら立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ね
とぐらたて かいしかりのこ すだちなば まゆみのおかに とびかえりこね

<私の想像を加えた歌の意味>
鳥小屋を建てて雁の雛を育てました。
雛が飛べるようになっても、皇子様にお見せすることはもうできません。
雁の子よ、巣立ったならば、皇子様の葬られている真弓の岡に飛び帰って来なさい。
亡き皇子様をお慰めするために。

<歌の感想>
 亡き人が手入れをしていた庭園や飼っていた動物が、その人を思い出させる。
 庭の草木にしても、愛玩動物にしても、人とは異なる命を持っている。人よりは、短く弱い命の草木や動物がいつもと変わらずにいるのに、その主人は亡くなった。その現実が、人の死を実感させる。


たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず


親と子と
はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
気まづきや何(な)ぞ

 
親子の関係は、時代の思潮に影響を受ける。だが、いつの時代も子の年齢が高くなれば、子が幼児の時のような一体感はなくなる。この二首は、子である作者は成人し、親は老人となっている。
 そうなると、②の短歌は、誰でもが経験する親子間を巧みに表現している。
 では、①はどうかというと、これもまた、親の老齢を実感した人にはおおいに共感できる感情だ。
 この二首の違いは、①が作者の心情を、作者の行動で表現している点だと思う。「泣きて」「三歩あゆまず」は、現実の体験としては受け入れがたい。親の老いに驚き、悲しく思った心情を詩の言葉として完成させていると感じる。
 ①は、よく知られた作品だが、②も味わい深い。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

病(やまひ)のごと
思郷(しきやう)のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも


<私の想像を加えた歌の意味>
故郷を懐かしく思う気持ちが、まるで病気に罹ったように湧いてくる。
そういう日、見上げた青空に煙がたなびいていた。
普段は思い出すこともない故郷が無性に恋しくなる日は、青空の煙さえ悲しく見える。

<歌の感想>
 思郷、望郷の心が、「あをぞらの煙」を悲しいものにするというところが、いかにも啄木の個性だ。望郷の心を、懐かしさに結びつけない感覚が好きだ。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴にもたす乱れ乱れ髪

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたは、もう帰りたいような素振りです。
でも、私は帰したくないのです。
春の宵が暮れようとしています。
私の髪は、乱れ乱れて琴にもたれています。

<歌の感想>
 春の宵へと移ろう時。つま弾く琴の音。整えていた髪が乱れてくる。帰っていかなければならない人。作者の心も乱れていく春の宵。

↑このページのトップヘ