万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年05月

万葉集 巻二 114 115 116

114 但馬皇女(たじまのひめみこ)が高市皇子(たけちのみこ)の宮にいた時に、穂積皇子(ほずみのみこ)を思ってお作りになった歌一首
秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも
あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも

115 勅命によって穂積皇子を近江の志賀の山寺に遣わした時に、但馬皇女のお作りになった歌一首
後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へわが背
おくれいて こいつつあらずは おいしかん みちのくまみに しめゆえわがせ

116 但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、その事が露顕して、お作りになった歌一首
人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
ひとことを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかわわたる


<私の想像を加えた歌の意味>
114
実った穂が一方にだけなびいています。
ぴったりとあなたに寄り添っていたい。
実った穂のように。
たとえ、世間がどのように私のことを悪く言おうとも。

115
後に残ってあなたの帰りを待ち焦がれているなんて、我慢できません。
それくらいなら、あなたの後を追いかけて行きましょう。
通った跡に印をつけておいてください、あなた。
私が追いつけるように。

116
うわさを気にしてなぞいませんが、でもあなたと私のことを言ううわさが絶えません。
これ以上、うわさになるのは困ります。
なるべく人目につかないように、あなたの所から帰る時は朝早くに帰ります。


 恋する思いが感じられる。そして、それは強く行動的だ。
  115と116は、歌の訳としては諸説あり、どれを採用すべきかは迷う。しかし、二人の恋を非難する世間があるが、それに負けないで恋を貫こうとする意思は、どのように訳そうと伝わってくる。
 この三首それぞれは、特に優れているとは感じない。しかし、三首をまとめて味わうと作者の人物像が浮かんでくる。周囲のうわさは知っているが、自己の感情に素直に生きようとする思いが時代を超えて伝わってくる。

万葉集 巻二 103 104 

103 天皇が藤原夫人に与えられた御歌一首

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくはのち
わがさとに おおゆきふれり おおはらの ふりにしさとに ふらまくはのち

104 藤原夫人が答え奉った歌一首 

わが岡の 龗に言ひて 降らしめし 雪の嶊けし そこに散りなむ
わがおかの おかみにいいて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりなん

<私の想像を加えた歌の意味>
103
こちらでは、大雪が降りましたよ。
辺り一面美しい雪景色で、あなたにも見せたいものです。
あなたが里帰りしている大原の古都では雪はまだまだ降らないでしょうから。

104
何をおっしゃっているのですか。
私は、大原の岡の神に言って、こちらでもう雪を降らせましたよ。
そちらに降ったと自慢している雪こそ、大原に降った雪の残り物でしょうよ。


 短歌でのやり取りを楽しんでいる双方の気持ちが伝わってくる。
 103の方は、初雪を夫人と共に眺めたかったという気持ちがあり、104の方は、あなたと一緒に大原の雪景色を眺めたかったという気持ちがあるのだろう。それをそのまま表さずに、ひとひねりして贈答している。
 自慢とやせ我慢と受け取ることもできるのだろうが、それよりは表現上の技巧のおもしろさとユーモアのセンスを味わうべきだと思う。
 題材が初雪というのにも、暮らしの美意識と豊かさを感じる。

140 柿本朝臣人麻呂の妻、依羅娘子(よさみのおとめ)が人麻呂と別れた時の歌一首
 
な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ
なおもいと きみはいえども あわんとき いつとしりてか あがこいざらん

<私が考えた歌の意味>
思うなとあなたは言います。
次にあなたと逢えるのはいつと分からないので、ますます恋しいのです。

<私の想像を加えた歌の意味>
いつまでも私のことを恋しく思うな、とあなたは言います。
あなたと別れて、次に逢える日がいつなのか分かりません。
もう逢えないかもしれないと思うからこそ、恋しいのです。

<歌の感想>
 解説によると、この作者は、石見の国の妻のことではないとある。だが、状況としては似通っているのではないかと感じる。ただし、131~139の長歌短歌に表現されているような別れてきた相手を思う感情は感じられない。

万葉集 巻二 138 139 140 或る本の歌一首と短歌

138

石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つのうらをなみ うらなしと ひとこそみらめ

潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも

いさなとり 海辺をさして 柔田津の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻
いさなとり うみへをさして にきたつの ありそのうえに かあおくおうる たまもおきつも

明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ來寄れ
あけくれば かぜこそきよれ ゆうされば かぜこそきよれ

波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす なびき我が寝し しきたへの 妹が手本を
なみのむた かよりかくよる たまもなす なびきわがねし しきたえの いもがたもとを

露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへりみすれど 
つゆしもの おきてしくれば このみちの やそくまごとに よろづたび かえりみすれど

いや遠に 里離りぬ来ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし わが妻の児が 
いやとおに さとさかりきぬ いやたかに やまもこえきぬ はしきやし わがつまのこが

夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む なびけこの山
なつくさの おもいしなえて なげくらん つののさとみん なびけこのやま

139
石見の海 打歌の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのうみ うつたのやまの このまより わがふるそでを いもみつらんか

<私が考えた歌の意味>

138
石見の海には船を泊めるよい入り江がないと見られている。
石見の海にはよいひがたがないと見られている。
よい入り江がなくとも、よいひがたがなくともよいではないか。
石見の海では、柔田津の荒磯の辺りに生える真っ青な海藻が海辺に打ち寄せる。
朝には波が立って海藻を海岸に寄せるし、夕には風が海藻を海岸に寄せる。
共に寝た妻の腕は、波になびく海藻のように私にぴったりと寄り添っていた。
その愛しい妻を置いて来たので、この山道の曲がり角ごとに振り返って見る。
振り返るたびに、妻の里はいよいよ遠くなり、ますます高くなる山を越えて来た。
我が妻も、私のことを恋しく思い、嘆いているであろう。
その妻の里を見たい、平らになれ、この山よ。

139
石見の海の打歌の山の木の間から、恋しい妻に届けと袖を振った。
離れはしたが、恋しい思いで振った私の袖を、妻は見たであろうか。

<歌の感想>
 異伝というのか、一部分だけが違う歌に注目したことがなかった。しかし、こういう一部分だけが違う歌もよく読むとおもしろい。
 138は、132の異伝とされるが、132よりも分かりやすくなっている気がする。分かりやすくはなっているが、説明的でもある。どちらがよいとは簡単には言い切れない。この語を変えるだけで作品としてよくなるなどという言い方をよく聞くが、そんなものではないと思う。部分の違いが作品全体に影響するので、一部分が異なれば違う作品として味わうべきだと思う。
 138は、長歌としてよく整理された表現になっていると感じる。整理されているだけに、後半の残してきた妻との別れを惜しむ気持ちがそれほど強く感じられない。132の方が、妻のことを思う気持ちが未練も交えてよく伝わってくる。

※ 以前の記事 を改めた。

万葉集 巻二 135 136 137 柿本朝臣人麻呂が石見の国から妻と別れて上京して来た時の歌二首と短歌(131~137)
  
135

つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる
つのさわう いわみのうみの ことさえく からのさきなる

いくりにそ 深海松生ふる 荒磯にそ 玉藻は生ふる
いくりにそ ふかみるおうる ありそにそ たまもはおうる

玉藻なす なびき寝し児を 深海松の 深めて思へど
たまもなす なびきねしこを ふかみるの ふかめておもえど

さ寝し夜は いくだもあらず 延ふつたの 別れし来れば
さねしよは いくだもあらず はうつたの わかれしくれば

肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど
きもむかう こころをいたみ おもいつつ かえりみすれど

大船の 渡りの山の もみち葉の 散りのまがひに
おおぶねの わたりのやまの もみちばの ちりのまがいに

妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の山の

いもがそで さやにもみえず つまごもる やがみのやまの

雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 
くもまより わたらうつきの おしけども わたらいくれば

天伝ふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる我も 
あまづたう いりひさしぬれ ますらおと おもえるあれも

しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ
しきたえの ころものそでは とおりてぬれぬ


136 反歌二首(135 136)
青駒が 足掻きを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける
あおこまが あがきをはやみ くもいにそ いもがあたりを すぎてきにける


137
秋山に 落つるもみち葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む
あきやまに おつるもみちば しましくは なちりまがいそ いもがあたりみん


<私が考えた歌の意味>

135
石見の海に辛の崎がある。
辛の崎の海底深く美しく海藻が生える。
辛の崎の磯に豊かに海藻が生える。
海藻が波になびくように、離れることなく寄り添い妻と夜を過ごした。
妻と過ごした日々が長く続くことはなく、別れてこなければならなかった。
妻を残して石見を離れるのはあまりにも辛い。
何度も何度も残してきた妻を振り返って見る。
大船の渡りの山の辺りまで来ると、黄葉が散り乱れている。
妻が袖を振っている姿もはっきりとは見えなくなってくる。
月が雲に隠れてしまうように、妻の姿が見えなくなる。
なんとも名残惜しい。
妻の姿が見えなくなったころには、夕日がさしてきた。
涙など見せない男子と自負していた私だが、悲しさをこらえることができない。
衣の袖が濡れてしまう。

136 
乗る馬の歩みはあまりにも速い。
妻の家から遠く離れた所まで来てしまった。

137
秋山に散る黄葉、しばらくは散り落ちないでくれ。
妻の家の辺りを、はっきりと見ていたいから。


<私の想像を加えた歌の意味>

135
石見で情愛の深い妻を得ました。
深い海の底で、静かに藻がなびき合うように。
磯で、藻が戯れ合うように。
妻と仲睦まじく過ごしました。
もっともっと一緒にいたかったのに、別れてくるしかありません。
名残惜しくて、何度も妻を振り返ります。
山の黄葉が散ってくると、この黄葉が散らなければ、もっと妻がよく見えたのにと思います。
妻の家の辺りもすっかり見えなくなるころには、夕日がさしてきます。
任地の妻との別れが辛くて、涙を流すなどとは思っていませんでした。
そんな私ですが、気づくと、着物の袖が濡れていました。

136
どんどん妻との距離が離れてしまう。
馬の足が速く感じられてしかたがない。
このままの速さでは、たちまち妻が遠くなる。

137
妻と離れ行く山道に黄葉が散る。
散る黄葉が、妻の家の辺りを見えづらくする。
黄葉よ、散らないでくれ。
もう少しの間だけでも、妻の家の辺りを見ていたい。

※ 以前の記事  を改めた。

万葉集 巻二 131 132 133 柿本朝臣人麻呂が石見の国から妻と別れて上京して来た時の歌二首と短歌(131~137)

131
石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つののうらみを うらなしと ひとこそみらめ

潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも

いさなとり 海辺をさして にきたづの 荒磯の上に
いさなとり うみへをさして にきたずの ありそのうえに

か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ來寄れ
かあおくおうる たまもおきつも あさはうる かぜこそよせめ ゆうはうる なみこそきよれ

波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし來れば
なみのむた かよりかくよる たまもなす よりねしいもを つゆしもの おきてしくれば

この道の 八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ
このみちの やそくまごとに よろずたび かえりみすれど いやとおに さとはさかりぬ

いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山
いやたかに やまもこえきぬ なつくさの おもいしなえて しのうらん いもがかどみん なびけこのやま 


132
石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのや たかつのやまの このまより あがふるそでを いもみつらんか

133
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思う 別れ来ぬれば
ささのはは みやまもさやに さやげども あれはいもおもう わかれきぬれば

134 ある本の反歌に言う
石見なる 高角山の 木の間ゆも 我が袖振るを 妹見けむかも
いわみなる たかつのやまの このまゆも わがそでふるを いもみけんかも

<私が考えた歌の意味>

131
石見の国には、波穏やかな湾も入江もないと、人は言います。
湾はなくても、よいではありませんか。
入江はなくても、よいではありませんか。
石見の海では沖にも磯にも海藻が豊かです。
朝の風が、その海藻を吹き寄せるでしょう。
夕の風が、波とともにその海藻を吹き寄せるでしょう。
私と妻は、海藻が絡み合い寄り添い合うようにして毎夜を過ごしました。
寄り添って寝た妻を置いてきたので、山道の曲がり角ごとに何度も振り返ってみました。
いくら振り返ってみても、妻のいる里は遠ざかり、いよいよ高くなる山を越えて来ました。
妻は、私のことを恋い慕って、気持ちも沈んでいるでしょう。
妻の家の門口だけでも、見たい。
妻の家の方向を塞いでいる山よ、どちらかに寄ってくれ。


132
石見の高角山の木の間から、妻へ向けて袖を振る。
私が袖を振っているのを、妻は見ているであろうか。

133
笹の葉が山全体で風にさやいでいる。
笹の葉のさやぎにも心を奪われず、私は妻のことを思っている。
恋しい妻を残してきているので。

134
私が振った袖を、残してきた妻は見ていただろうか。
高角山の木々の間から妻へ向けて振った私の袖を。


<私の想像を加えた歌の意味>

131
石見の海は、荒々しい海だと言う人が多いようです。
石見の海には、穏やかな入江はありません。
穏やかな入江はないのですが、海は豊かで美しい海藻が採れます。
朝の風、夕の風が、豊かな海藻を吹き寄せます。
石見で、私は情の細かい妻を得て、仲睦まじく暮らしていました。
仲良く暮らした妻を、置いて来たので、都までの道すがら何度も石見を振り返りました。
幾度も振り返るのですが、その度に妻のいる里は遠ざかり、ますます高くなる山道を越えて進むしかありません。
私が妻を振り返るのと同じように、妻は私のことを恋い慕って、私の旅の方向を見つめているでしょう。
妻の家の方向を塞いでいる山よ、もっと低くなってくれ。
妻は、私のことが恋しくて、気持ちも萎えているにちがいない。
せめて、妻の家の門口だけでも、見たい。
山よ、低くなれ。


132
木々の生い茂る高角山で、残してきた妻のことを恋しく思い出しています。
妻の所からも見えている高角山で、私が恋しく思い出していることを、妻は察するでしょうか。
妻は、私の思いを分かっているに違いありません。
遠く離れていても、私と妻の間を隔てることはできません。

133
サヤサヤサヤ、山中に笹の葉のさやぎが聞こえる。
サヤサヤ、さやぐ音をいくら聞いても、思うのは妻のことだけ。
あんなに仲睦まじく寝た妻を、残してきてしまった。


134
高角山には、木々が生い茂り、妻のいる里を遮っている。
妻との間は遮られていても、私の思いを妻に届けようと袖を振った。
妻は、私の思いを受け止めているにちがいない。

万葉集 巻二 130 長皇子(ながのみこ)が弟の皇子に与えた御歌一首

丹生の川 瀬は渡らずて ゆくゆくと 恋痛し我が背 いで通ひ来ね
にうのかわ せはわたらずて ゆくゆくと こいいたしわがせ いでかよいこね

<私の想像を加えた歌の意味>
さまざまな障害があり、心はためらい迷う。
迷いは消えないが、弟を恋しく思う気持ちは弱まりはしない。
さあ、弟よ、私のところに来ておくれ。
周囲を気にして会わずにいることなど、もう我慢はできない。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

うすみどり
飲めば身体(からだ)が水のごとき透きとほるてふ
薬はなきか 

<私の想像を加えた歌の意味>
死ぬことも、消えてしまうことも、容易ではない。
だが、今のまま生き続けること、存在し続けることはしたくない。
生きなければならないのだろうが、生きる意義を見つけられない。
体が透けてしまえばよい。
存在するが、うすみどり色のあるかないかわからにようなものになればよい。
体がうすみどり色に透けてしまうような薬はないものか。

<歌の感想>
 ここまで出て来た歌の中では異色だ。見ているもの、聞いているものがない。作者の行為もない。作者の心象を表す語もない。それでいながら、空想だけという感じもしない。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

誰が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)

<私が考えた歌の意味>
日が暮れてきた。
故郷へ長い手紙を書きたいような気持だ。
その手紙を読む人は皆、私のことをなつかしく思い出す。
そんな手紙を書きたくなる夕だ。

<歌の感想>
 複雑な構成の作品だと思う。
 読む人の誰もが、作者のことを懐かしく思い出すような手紙を書くことはできないであろう。それどころか、故郷への手紙を書こうとすらしていないと思う。そんなあり得ないような手紙を書きたいと思うことがある、という自己を対象化して表現している。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

ぢつとして
黒はた赤のインク吸ひ
堅くかわける海綿を見る

<私が考えた歌の意味>
机の上の海綿を見ている。
海綿はじっとして、黒か赤のインクを吸ってきた。
インクを吸ってはいたが、今は乾いて堅くなっている。
動くに動けず、黒でも赤でもインクを吸い、そして乾いてしまった海綿。
その海綿を私は見ている。

<歌の感想>
  『一握の砂』には、l「しつとりと水を吸いたる海面の重さに似たる心地おぼゆる」がある。「ぢつとして」の方が、より沈んだ感じを受ける。
 日常を題材にした短歌において、作者の感情の起伏がなくなってきて、いつも沈んだ調子になっているように感じる。

万葉集 巻二 129 大津皇子の宮の侍女だった石川郎女が、大伴宿祢宿奈麻呂(おおとものすくねすくなまろ)に贈った歌一首
129 
古りにし 嫗にしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童のごと
ふりにし おみなにしてや かくばかり こいにしずまん たわらわのごと

<私が考えた歌の意味>
年老いた婆さんなのにと思うのですが、恋してしまいました。
まるで、子どもが夢中になるように、この年であなたへの恋に溺れています。

<歌の感想>
 現代とは、年齢の違いや社会通念の違いがあるだろうと思いつつも、案外それほどの違いはないのかとも思う。もう過去のことかもしれないが、平成に入ってからでも、五十歳代の女性が十歳以上年下の男性に恋したなら、ちょっとした話題になった。
 当時の平均寿命などを考えれば、年齢は現代よりは若いであろうが、年上の女性の年下の男性への恋心という点では、現代と共通する感情があるように思う。

万葉集 巻二 126 127 128 

126 石川女郎(いしかわのいらつめ)が大伴宿祢田主(おおともすくねたぬし)に贈りし歌一首
みやびをと 我は聞けるや やど貸さず 我を帰せり おそのみやびを
みやびおと われはきけるや やどかさず われをけせり おそのみやびを

127 大伴宿祢田主(おおともすくねたぬし)が返歌として贈った歌一首
みやびをに 我はありけり やど貸さず 帰しし我そ みやびをにはある
みやびおに われはありけり やどかさず かえししわれそ みやびおにはある

128 同じ石川女郎(いしかわのいらつめ)が、更に大伴田主に贈った歌一首
我が聞きし 耳によく似る 葦のうれの 足痛む我が背 つとめたぶべし
わがききし みみによくにる あしのうれの あしやむわがせ つとめたぶべし

<私の想像を加えた歌の意味>
126
あなたは、男女のことにも通じた風流人だと聞いていました。
それなのに、誘いをかけた私の気持ちを察することもできないで、泊めてもくれませんでした。
ずいぶんと、女の気持ちに鈍い風流人ですこと。

【左注のおおまかな意味】
 大伴田主は、容姿美しく、風流に優れた人で、皆から羨まれた。石川郎女が、田主と夫婦になりたいと思い、田主に手紙を出そうとしたが、よい使者が見つからなかった。そこで、いやしい老女の姿になって、田主の寝屋まで行って、火をいただきたくて伺いました、と言った。田主は、石川郎女の変装とは分からずに、女を引き留めることなく帰した。
 翌朝、石川郎女は仲人もなく田主に求婚したことを恥じ、また変装して出かけたのに帰されたことを恨んで、この歌を作って、田主に贈り、田主をからかった。

127
私こそまさしく風流人です。
露骨な誘いをかけてくるような女性を泊めないで返すことこそ、風流なのです。
男女のことに通じた風流人でなければできないことです。

128 
あなたは、足が悪いといううわさをよく聞きます。
そのうわさが本当なら、どうぞ痛む足をいたわってくださいな。
足が痛んで歩けないようになっては大変ですよ、女の気持ちがよくわかる風流人さん。

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