万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年03月

万葉集 巻一 58 高市連黒人

いづくにか 船泊てすらむ 阿礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟
いずくにか ふなはてすらん あれのさき こぎたみいきし たななしおぶね

<私の想像を加えた歌の意味>
小舟が、阿礼の崎を巡っているのが見えていた。
阿礼の崎の風景を楽しみながら、漕いでいたようだ。
今は、舟も見えず、いつも通りの海だ。
あの小舟は、今頃どこに泊まっているのだろう。

 以前の記事では、いろいろな想像をしてみた。しかし、改めて歌を味わうと、余計な想像は余計でしかなかった。  
 長い航路を行くには、頼りないような小舟の動きを眺めていた。その小舟は視界から消えたが、なんとなく、気になっている。
 舟が見えていたときの景色、舟が見えなくなった今の景色、その両方を思い描くことができる。

 好きな短歌は、作者に注目して選びはしなかった。額田王や柿本人麻呂の短歌が入って来るのは当然のような気がするが、高市連黒人の作を二首選ぶとは、自分でも意外だ。好みに一致するのだろう。

万葉集 巻二 88

秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
あきのたの ほのうえにきらう あさがすみ いつへのかたに あがこいやまん
※「いつへの方に」の「へ」の読みが、「ヘ」か「え」かわからなかった。

<私が考えた歌の意味>
秋の田の朝霞はあっという間に消えてしまいます。
あの朝霞のように、私の恋心が消え去るのはいつのことでしょうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
秋の田には稲穂が実っています。
その稲穂を覆いつくすように朝霞が立ち込めています。
でも、朝靄はいつの間にか、何もなかったように消えてしまいます。
私の心にも霞のような恋心が立ち込めています。
朝霞が消えてしまうように、恋しい心が消える日がくるのでしょうか。

<歌の感想>
 口訳萬葉集 折口信夫 では、次のように訳されている。「秋の田に実った稲穂の上に、ぼうと懸かつてゐる朝霞が、何方かへ消えてなくなるやうに、自分の戀ふ心も、どちらへでも消散させたいが、到底、何方へも散らすわけにはいかない。」
 この訳がしっくりとくる。
 恋が成就するともしないともわからないもやもやした状態から抜け出したい、というよりは、しばらくはこのぼんやりしたままなのだろう、という気持ちを感じる。

万葉集 巻一 47 柿本人麻呂

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し
まくさかる あらのにはあれど もみちばの すぎにしきみが かたみとそこし

<私の想像を加えた歌の意味>
今、ここは、ただの荒れた野です。
時を遡れば、ここで、亡き皇子が狩りをなさいました。
亡き皇子の立派なお姿が、亡き皇子の深い思いが、よみがえります。
亡き皇子の遺志を思い起こすために、ここに来たのです。

 枕詞の効果を味わうことは、現代人にはできない。
 しかし、この短歌の枕詞からは、何かが伝わってくる。「ま草刈る荒野」からは、ただの荒野ではなく、「昔の出来事が語り継がれている荒野」という感じがする。「黄葉の過ぎにし」からは、「立派な業績を残し、惜しまれて亡くなった」という感じがする。
 想像でしかないが、枕詞の効果も含めて、この短歌に上のような意味が込められている、ととらえた。

 一方では、余計な想像を加えないで、次のように素直に受け取ることもできる。

ただの荒野だが、亡き皇子の形見の場所なのでやって来たのです。

 このように、とらえても、草深い荒野と、荒野を行く皇子と供の人々の思いが浮かんでくる。
 また、45から49の長歌短歌を一連の作として味わうことも大切だと思う。

万葉集 巻一 42 柿本人麻呂

伊勢国に幸したまひし時に、京に留まりし柿本朝臣人麻呂の作りし歌

潮さゐに 伊良麌の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を
しおさいに いらごのしまへ こぐふねに いものるらんか あらきしまみを

<私の想像を加えた歌の意味>
船は、今頃、伊良湖の島の辺りまで進んでいる。
あの女(ひと)も、船に乗っている。
あの女(ひと)は、怯えていないだろうか。
潮騒が轟き、波が渦巻く荒々しい海の上で。

 短歌の表現と題詞から、人麻呂が想像しての作であることがわかる。想像だけで作った作品は、力のないものになることが多い。それなのに、この作は力強い。
 想像だけで作っているというよりは、距離と時間を超えて、人麻呂が感じ取っていることで短歌ができあがっていると感じる。
 以前にこの短歌を考えたときは、「妹」がこの海の景色を味わっている、と受け取った。
 今回は、味わっている、だけとは取らなかった。「妹」は、荒々しい海の景色を、不安も感じながら見入っている、と受け取った。人麻呂は、「妹」のそのような心情を想像しているような気がする。
 船の進路、航路の景色、船上の人の心情、これだけのことを推測して、それを無理なく三十一音で表現している。どうして、こういうことができるのか、不思議だ。

万葉集 巻二 87

ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに
ありつつも きみをばまたん うちなびく わがくろかみに しものおくまでに

<私が考えた歌の意味>
今のままで、あなたを待ち続けましょう。
この黒髪に霜が降りるまで待っていましょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたの来ない夜が続いています。
あなたは今夜も来ないけれど、私は待っています。
たとえ、私のこの長くなびいている黒髪が白くなるまででも。
このまま待ち続けています。

<歌の感想>
 相聞の歌には、大袈裟とも受け取れる表現がある。
 この短歌では、一夜のこととして訳する場合が多い。そう受け取ると、「霜」は実際の霜を指す。私は、「霜」を白髪ととらえて、歌意を考えてみた。そうなると、いかにも大袈裟な詠みぶりになる。
 これほど思っている、と強めて表現する場合もある。一方では、本当にこのように思っている、と深い情感を表現する場合もある。
 相聞の歌では、正直な感覚の表現と、より強めた表現があり、その狭間を行き来しているように感じる。

朝日新聞夕刊2017/3/1 あるきだす言葉たち 春の流星 杉谷 麻衣(すぎたに まい)

身のうちに心臓(こころ)のふたつあることを知らされてなお遠いあさやけ

 この一首だけでは、どんなことを詠んでいるのか、わからなかった。

産院のいりぐちに待つ靴がみなわれを向きたり春花の顔で

生まれても産まれぬいのちのあることも奇跡でしょうか花冷えの風

 この二首を読んで、歌の意味が私にも伝わってきた。
 文字の効果を感じさせられる。
 「心臓」は、心臓に間違いないのだが、作者にとっては、「こころ」なのだと感じる。
 いのちが「生まれ」た。だが、「産まれぬ」いのちも「ある」。作者にとって、このことは、「奇跡でしょうか」という問いかけでしか表せない心情なのであろう。
 この三首の短歌に表現されている経験と心情を、追体験することは私には不可能だ。だが、作者が感じているものを受け取ることはできる。
 短歌という形式は昔のままだが、内容は極めて現代だと感じた。

万葉集 巻一 32 高市古人(高市連黒人)

古の 人に我あれや 楽浪の 古き京を 見れば悲しき
いにしえの ひとにわれあれや ささなみの ふるきみやこを みればかなしき 

<私の想像を加えた歌の意味>
我は、いにしえの人なのか。
今のこの景色を眺めると、無性に悲しくなる。
この草原には、見上げるような宮殿が建っていた。
この荒れた道では、天皇に仕える人とその供の者たちが大勢行き来していた。
今は、ただ廃れていく都の跡しかない。

 旧都を詠んだ短歌としては、単純な構成だと思う。
 「古の人に我あれや」は、なんのことだろう、と思わせられる。口訳萬葉集 折口信夫 では次のように訳されている。「ひょっとすれば、自分が、昔近江の朝廷に仕へてをつた人なのであらうか、なんだか、昔の人の様な気がする。」この訳通りだと思う。作者のこの感じ方がおもしろい。
 そして、結句の「見れば悲しき」は、あまりにもストレートな表現だ。都跡の様子や廃墟に伴う情感は、描かれていない。
 この飾らない表現が特徴だと思う。時間の経過を、感じたままに詠んでいると感じる。

万葉集 巻一 8 額田王

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
にきたつに ふなのりせんと つきまてば しおもかないぬ いまはこぎいでな

<私の想像を加えた歌の意味>
船旅の準備をしつつ、月の出を待っていました。
出航の支度も整い、潮の具合もちょうどよくなりました。
さあ、今こそ、船出をいたしましょう。

 歌の背景の解釈はいろいろとある。しかし、どのような設定であっても、これから始まることへの作者の期待が詠まれていることを、はっきりと感じる。
 巻一の7と8は、額田王の作と伝えられるが、共通した所がある。それは、現代人が朗読しても味わえる声調の滑らかさと、表現には出てこないが、人々の動きが想像できる点だ。
 7の作では、行宮を造っている人々の動き、この作では、出航の準備をしている人々の様子だ。このように、働く民を思い描くことのできる短歌は、数少ないと思う。

万葉集 巻二 86

かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
かくばかり こいつつあらずは たかやまの いわねしまきて しなましものを

<私が考えた歌の意味>
恋しい思いにもう耐えられません。
こんなに思い悩むなら、高山の岩を枕に死んでしまう方がましです。

<私の想像を加えた歌の意味>
どれほど私が恋しい思いをしているか、あなたにはわからないでしょう。
この恋しい気持ちのままでいるより、いっそ山の中で死んでしまう方が楽なくらいです。

<歌の感想>
 激しい恋心のようでいながら、もっと私の所に通って来てください、とあてつけている気持ちも感じられる。

万葉集 巻一 7 額田王 未だ詳らかならず

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ
あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりいおしおもおゆ

<私の想像を加えた歌の意味>
季節は秋、宇治のかりみやで旅の一夜を過ごしました。
かりみやと言っても何もない所なので、秋の草を刈って、屋根を葺きました。
草刈りから屋根葺きまで大急ぎで作ったあの宇治のかりみやに泊まったことは、なぜか忘れがたいことです。

 季節は秋、泊まった地は宇治と、歌の背景がはっきりと浮かんでくる。当時の行幸の際のかりみやがどの程度のものであったかは分からない。しかし、建物の屋根も葺かれていない状態から、多くの人々が働いて、たちまち建物の形になる様子が想像できる。
 過去のことが、今ここで繰り広げられているように描かれている。それでいながら、思い出の中のことというベールもかかっている。
 全体の調子の滑らかさと、結句の収め方に並々ならぬ力量を感じる。

万葉集 巻二 85

君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
きみがゆき けながくなりぬ やまたずね むかえかゆかん まちにかまたん

<私が考えた歌の意味>
君が旅に出られてから日にちが長くなりました。
こちらから山道を尋ねて、会いにいきましょうか。
それともこのままお待ちしていましょうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたが旅にお出かけになられてからずいぶんと日にちが経ちました。
あなたは、お戻りになる様子もありません。
私の方から山道であっても、旅先のあなたの所まで、出かけていきたいほどです。
でも、やはりお待ちしておりますので、一刻も早くお戻りください。

<歌の感想>
 実際に、出かけていくことはできないであろう。たとえ、君の所まで出かけていくのが無理と分かっていても、この気持ちを伝えたい、との想いが込められている。

山家集 上巻 春 42 7023

つくりおきし 苔のふすまに うぐひすは 身にしむ梅の 香や匂うらん
つくりおきし こけのふすまに うぐいすは みにしむうめの かやにおうらん

<私が考えた歌の意味>
うぐいすは、梅の香りを身にしみ込ませて巣に戻る。
作っておいたうぐいすの苔の巣は、梅の香りがしているだろう。

<私の想像を加えた歌の意味>
うぐいすは、梅の林を飛び回り、巣を作る。
梅の香りを身にしみこませて、苔の巣に寝に戻る。
さぞかし、うぐいすの苔の巣は梅の香りでいっぱいだろう。

<歌の感想>
 匂いを描いているが、色彩も想像できる。苔の緑、うぐいすの鶯色、まるで、上品な和菓子のようだ。作者の観念の中の事柄ではあるが、たくさんの鶯の歌の中の一首と見ると、不自然さは感じられない。

万葉集 巻一 84

秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山そ 高野原の上
あきさらば いまもみるごと つまごいに かなかんやまそ たかのはらのうえ 

<私が考えた歌の意味>
鹿が鳴いている声が聞こえている。
秋になったら、今と同じように雌鹿を求めて雄鹿が鳴くであろう。
この高野原の山で。

<私の想像を加えた歌の意味>
秋になれば、高野原の山では、妻を求める鹿が盛んに鳴くでしょう。
今も、鹿の鳴き声が聞こえています。
この声を聞くと、秋になった高野原の山の様子が浮かんできます。

<歌の感想>
 今、鹿が鳴いているのか、鹿が鳴いているのを思い描いているのか、はっきりとしない。ただ、それは重要ではないと思う。今は秋ではないが、秋になったらこうであろう、と感じ、それを表現していることがこの歌の特色なのだと感じる。

万葉集 巻一 83

海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
わたのそこ おきつしらなみ たつたやま いつかこえなん いもがあたりみん

<私が考えた歌の意味>
竜田山を越えて家にもどれるのはいつの日だろうか。
早く妻の住むあたりを見たい。

<私の想像を加えた歌の意味>
沖に白波が立つ、タツと言えば竜田山だ。
竜田山と言えば、竜田山の向こうは我が家だ。
まだまだ家に帰る日は、来ない。
妻は家で待っている。
故郷へ戻る日が来て、家のあたりを早く見たいものだ。

万葉集 巻一 82

うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば
うらさぶる こころさまねし ひさかたの あめのしぐれの ながれあうみれば

<私が考えた歌の意味>
さびしい思いで心が溢れそうになる。
しぐれの降るのを見ていると。
しぐれは、高い空から交差し流れるように降って来る。

<私の想像を加えた歌の意味>
しぐれが降りそそぐ。
高い空から、雨がいくすじもの流れとなって、降ってくる。
見上げる顔に、冷たいしぐれが当たり、心はどんどん淋しくなる。

<歌の感想>
 情景と心情を考えれば、時雨の空を眺めると心はうら淋しくなる、となろう。しかし、そのような抒情的なものは感じられない。激しく降りそそぐしぐれ、その雨に戸外で打たれている情景が浮かんでくる。

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