万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2017年01月

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

心より今日は逃げ去れり
病ある獣のごとき
不平逃げ去れり

<私が考えた歌の意味>
心の中から今日は逃げ去った。
病に罹った獣のような不平が逃げ去った。

<私の想像を加えた歌の意味>
今日の精神状態は平生と違う。
いつもいつも私の心にある不平、まるで病気の獣のような不平が消えている。
怯え、疑い、逃げ惑う病気の獣のような不平が、私の心から逃げ去った。
不平が逃げ去った今の気持ちは、晴れやかで穏やかだ。

<歌の感想>
 どうしてこんなに穏やかな気持ちになったかを、啄木は表現していない。代わりに、「逃げ去れり」を繰り返している。こういう平穏な精神状態が、稀なことであり、何か具体的な理由があるからではないことを、啄木は知っていると感じる。
 普通の人なら、不安定で不安な気持ちになるのは滅多にないことだ。啄木の場合は、平生が不安定で不安な気分であり、稀に安定した気持ちになるのであろう。

万葉集 巻一 60

宵に逢ひて 朝面なみ 名張にか 日長き妹が 庵せりけむ
よいにあいて あしたおもなみ なばりにか けながきいもが いおりせりけん 

<私が考えた歌の意味>
妻が旅に出てから、もうずいぶんと日数が経った。
旅先の妻は、今頃は名張の辺りで仮の小屋に泊まっていることだろう。
その「名張」は、一夜を共に過ごした女性が朝には恥ずかしがって隠れるように振舞うこと、すなわち「なばる」に通じている。

<私の想像を加えた歌の意味>
今頃、妻は名張の辺りに泊まることだろう。
名張という地名を聞くと、一緒に寝た女性が朝は恥ずかしがって隠れること「なばる」を連想する。
旅に出ている妻も、朝に恥ずかしがる様子を見せていたものだ。
妻が旅に出てから、日にちが過ぎれば過ぎるほど逢いたい思いが強くなる。

<歌の感想>
 妻を恋しく思っている気持ちを想像してみたが、地名の由来や地名から連想できることに興味があるだけかもしれない。行幸に伴う短歌で、地名をいかに詠み込むかは、重要なことであったと感じる。

万葉集 巻一 59

流らふる われ吹く風の 寒き夜に わが背の君は ひとりか寝るらむ
ながらうる われふくかぜの さむきよに わがせのきみは ひとりかねるらん

<私が考えた歌の意味>
留守を守っている私に寒い風が吹いてくる夜です。
旅先の大切なあなたは、風の吹く寒い夜に、一人で寝ているでしょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたが旅に出て、もうずいぶんと日数が過ぎました。
今晩のように風の強い夜は、家にいる私も寒さが身に染みます。
旅先のあなたは、私よりももっと寒々しい思いで、一人の夜を過ごしているのでしょう。

万葉集 巻一 58

いづくにか 船泊てすらむ 阿礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟
いずくにか ふなはてすらん あれのさき こぎたみいきし たななしおぶね

<私が考えた歌の意味>
阿礼の崎を漕ぎめぐっていたあの小舟は、今ごろは、どこの海岸に着いたろうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
棚なし小舟が、阿礼の崎をゆっくりと航行していた。
阿礼の崎の風景を楽しみながら、船旅をしていたのだろう。
あの小舟は、今ごろはどこかに停泊していることだろう。
小舟の姿が見えなくなった阿礼の崎は、いつもに変わらぬ景色を見せている。

<歌の感想>
 時間の経過に注目すると、棚なし小舟が見えていたのは過去のことだ。現在見えているのは、船の姿のない阿礼の崎だ。そして、あの見えていた小舟はどこに停泊しているだろう、と距離的に離れた所を推測している。
 このように考えると、さらに想像が膨らむ。
 作者は、この小舟に乗っているのではないか。船は、阿礼の崎を巡って、今は目的地に停泊している。そういう状況で、我々の小舟を海岸から眺めていれば、きっとこのように見え、感じられると、表現していると考えてみた。

万葉集 巻一 57

引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに
ひくまのに におうはりはら いりみだれ ころもにおわせ たびのしるしに

<私が考えた歌の意味>
引馬野には、はりの木の花が色鮮やかに咲き乱れています。
はりの花で衣を染めてしまいなさい。
旅のしるしに。

<私の想像を加えた歌の意味>
引馬野という地名にちなんで、馬を進めてよいでしょう。
色鮮やかに咲き乱れているはりの木の花の中を、衣が染まってもかまわず進んでください。
うっすらと染まった衣は旅の記念になるでしょう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何やらむ
穏(おだや)かならむ目付(めつき)して
鶴橋(つるはし)を打つ群れを見てゐる

<私が考えた歌の意味>
なにやら穏やかではない目付でつるはしを振るって働いている人たちを、見ている。

<私の想像を加えた歌の意味>
つるはしで壊れた石畳を剥がしている男たちがいる。
男たちは、炎天下、黙々とつるはしを振るう。
あの男たちの目付はどこか険しい。
目に見えぬ敵と戦っているかのようだ。
何もしていない私は、その働く男たちをただ見続けている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

路端(みちばた)の切石(きりいし)の上に
腕拱(く)みて
空を見上ぐる男ありたり

<私が考えた歌の意味>
道端の切石の上に立って、腕組みをして、空を見上げている男がいる。

<私の想像を加えた歌の意味>
男が立っている。
空を見上げている。
腕を組んで、空を見上げている。
道の脇にある石の上に立っていたのだ。
ごつごつして、さきの尖った石の上に。

<歌の感想>
 どこがよいとはいえないが、よい歌だ。作者にとっては、なんのつながりもない男だと思う。
 男は、きっと肉体労働をしている逞しい人だと想像した。この男が何か大きな夢を抱いているなどという感じはない。思想や夢を持つような男ではないが、大地にしっかりと立っているという迫力がある。啄木は、それを感じ取っている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

とかくして家を出(い)づれば
日光のあたたかさあり
息深く吸ふ

<私が考えた歌の意味>
いろいろなことがあり、家に居るのがいやになり、外へ出た。
外は晴れて日差しが暖かい。
煩わしいことを忘れ、深呼吸する。

<私の想像を加えた歌の意味>
思ったようにはちっとも進まない。
俺にはできないことばかりを言われる。
どこへという当てもないけれど、とにかくどこかへ行こう。
家の中は薄暗いけど、外は晴れている。
太陽の光にはこんなに暖かさがあったんだ。
空を見上げ、息を深々と吸う。

<歌の感想>
 日の光を浴びて深呼吸することで、何かが解決するわけではない。また、気分を一新して働くのでもないだろう。啄木が、息を深く吸ったのと、うつむき続けていた気分が変化したことだけは伝わってくる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

時ありて
子どものやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業(わざ)かな

<私が考えた歌の意味>
暇な時間を持て余し、子どものように遊んで過ごした。
こんなことは、恋をしている人ならしないことだろう。

<歌の感想>
 「時ありて」の意味が分からない。何も用事のない時間、と受け取ってみたが、どうであろうか。「たはむれす」も作者自身の行為だと思うが、どんなことをしているか、イメージが湧わかない。

万葉集 巻一 56

河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は
かわのえの つらつらつばき つらつらに みれどもあかず こせのはるのは

<私が考えた歌の意味>
川の岸辺に椿の花が幾重にも重なって咲き誇っている。
幾度見ても飽きることなどない見事さだ。
椿が咲き誇るここ巨勢の春の野は。

<歌の感想>
 見たままの景色を描いているというよりは、54の歌と同様に、音の重なりを楽しんでいることを感じる。54と56は、関連している。そのどちらが、先行した作なのかということは、専門家の考察に頼るしかない。
 どちらが先に作られた(本歌)としても、万葉人が、音のおもしろさと短歌相互の関連付けを楽しんでいることは、はっきりと感じ取れる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きるざるごとし

<私の想像を加えた歌の意味>
早朝から晩遅くまで、働かされ続けた牛がよだれを垂らしている。
たらたらと、鳴き声も上げない口から。
かなしげな目をして、うつむき、たらたらと、よだれを落とす。
いつまでもいつまでも、千万年も続くように、使役され続け、よだれを垂らし続ける。

<歌の感想>
 牛のよだれに注目しているのが先ず興味深い。そして、その様を「たらたらと」と詠んだことによって、飼われている牛が持つ悲しさを表現していると感じる。

万葉集 巻一 55 
 
あさもよし 紀人ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀人ともしも
あさもよし きひとともしも まつちやま いきくとみらん きひとともしも

<私が考えた歌の意味>
紀の国人は、大和へ行くときに真土山を眺め、また帰りにも真土山を眺めます。
大和への旅にあって、二度もあの立派な真土山を見ることができるなんて、羨ましいかぎりです。

<歌の感想>
 二句と結句が繰り返される形式と、音が当時の人にはおもしろかったのであろう。
 紀の国の人だけでなく、大和の人が同じ旅路を通っても同様のことだと思われるが、真土山の位置が、紀の国の旅人にとっては、出発と帰着を感じさせるものだったと想像した。また、紀の国を称賛する意味合いもあったのであろう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る

<私の想像を加えた歌の意味>
小声の言い争い声がだんだん高くなる。
その声をかき消してピストルの音が響く。
一人の人生が終わる。

<歌の感想>
 この歌の意味が分からない。
 映画や舞台の一場面を観て、そこに自分の思いを重ねているとも受け取れる。啄木自身が誰かと言い争いをしていて、あまりにもクドクドと言われたので、相手を撃ち殺すことを夢想したとも受け取れる。あるいは、言い争いなどではなく、人生のつまらなさに辟易し、ピストルの一発でそれを終わりにすることを夢想しているとも受け取れる。
 ピストルで、自らの人生を終わりにしたい気持ちを描いている、とするのがよいように思えるが、どうであろうか。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔

<私の想像を加えた歌の意味>
ナイフを持って自分を刺す。
それは真似でしかない。
刺す真似をしている自分の顔をまじまじと見る。
死ぬ真似をしている私の顔は、真剣で、悲しく、まぬけてもいる。
こんな顔をしているのは、普通におどけているだけと思ってよいのか。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

浅草の凌雲閣(りょううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記かな

<私の想像を加えた歌の意味>
あの日は浅草の凌雲閣の最上階に上った。
そこで、腕組みをして下を見下ろした。
まるで、私が眼下の全ての上に立ったように。
その日の日記には、昂揚した私の思いが長文で書かれている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

ことさらに燈火(ともしび)を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと

<私の想像を加えた歌の意味>
いつもはそんなことをしないのに、部屋の明かりを消している。
その暗い部屋で、あることを思い詰めている。
思い続けていながら、ふっと気づいた。
どうでもいいようなことを思い詰めていたのだと。

<歌の感想>
 解決せねばならない何か思い悩むことがあり、悩み続けているかと思いきや、啄木はそんな自分の心を客観視している。
 短歌に詠まれている自己を、詠んでいる自己が見つめている。

万葉集 巻一 54

巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのわな こせのはるのを


<私の想像を加えた歌の意味>
ここ巨勢山では椿の葉が幾重にも茂っています。
この秋の椿を、幾度も眺めてください。
眺めていると、巨勢山の春の野に椿の花が咲くのが浮かんでくるでしょう。

<歌の感想>
 題詞から秋の作と分かる。「つらつら」の音の重なりが当時の人々にはおもしろかったのであろう。「つらつら椿」を「幾重にも茂って」、また、「つらつらに」を「幾度も」として、意味を考えてみた。

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