万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2016年12月

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

<私が考えた歌の意味>
まるで獣のような顔だなあ。
その獣が口を開けたり閉じたりしている。
そんな風に見ていて、人が語っている中身などちっとも聞いていなかった。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

死ね死ねと己(おのれ)を怒(いか)り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

<私が考えた歌の意味>
自分自身に腹が立って、居ても立っても居られない。
こんな愚かな私なぞ、死ね、死ね、と叫ぶ。
叫びは心の内だけで、黙り込んでいるしかない。
自分への怒りが満ちるが、心の底は暗くなるばかり、むなしさしかない。

万葉集 巻一 49 柿本人麻呂

日並の 皇子の尊の 馬並めて み狩立たしし 時は来むかふ
ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかう


<私の想像を加えた歌の意味>
昔、この場所で、軽皇子の父上であられた日並(草壁)の皇子が、狩りを催されました。
まさに今、あの時と同じ季節を迎えます。
今は亡き日並の皇子が馬を並べて、狩りへと出発された様子が目に浮かぶようです。
さあ、今こそ軽皇子も父上と同じように、馬をお進めください。

<歌の感想>
 46から49の短歌は、45の長歌と一体となり、遊猟の様子と、その遊猟がもつ意義を見事に表現していると感じる。
 その中でも、47の短歌が優れていると思う。
 「ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し」は、単純な構成で、情景と心情を表す語句は少ない。しかし、「形見とそ来し」で、人麻呂と遊猟の一行がその土地にどんな思いを抱いているかが伝わってくる。「ま草刈る」と「黄葉の」の枕詞は、現代でもあるイメージを湧かせる効果を発揮している。
 47の短歌とともに49を味わうと、人麻呂の視点が過去のことを思い出として描いているだけではないことがよく伝わってくる。

万葉集 巻一 48 柿本人麻呂 

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
ひんがしの のにかぎろいの たつみえて かえりみすれば つきかたぶきぬ

<私が考えた歌の意味>
東の方の野に陽炎が立つのを見た。
振り返って見ると、月は傾いてしまった。

<歌の感想>
 柿本人麻呂の短歌としては、しっくりこない歌だと感じる。人麻呂の歌には、時間や距離の経過が表わされることがほとんどだと思う。この短歌は、この通りの訓み下しだとすると、45から49の中で、一首だけ現在のことを詠んでいることになる。しかも、実際の景色のみを表現している。描いている景色は雄大ではあるが、人麻呂の作の中で、特別すぎると思う。
 
 参考までに、手元にある訳を引用しておく。

東方の野には曙の光のさしそめるのが見えて、西を振りかえると月が傾いてあわい光をたたえている。日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店

東の野に陽炎の立つのが見えて、振り返って見ると月は西に傾いてしまった。新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店

東の野を見ると、朝日のほのめきさすのが見えてゐるので、ふりかへって見ると、月は最早、西の方に傾いてしまった。(これは朝猟の後の歌と見ればよい。)口訳萬葉集 折口信夫

万葉集 巻一 47 柿本人麻呂

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し
まくさかる あらのにはあれど もみちばの すぎにしきみが かたみとそこし

<私が考えた歌の意味>
今、ここは、ただの荒れた野でしかありません。
だが、今は亡き草壁皇子が狩りをされた土地なのです。
この形見の地で、草壁皇子のことを偲ぶためにここに来たのです。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

しつとりと
水を吸ひたる海綿(かいめん)の
重さに似たる心地(ここち)おぼゆる

<私の想像を加えた歌の意味>
海綿にたっぷりと水を吸わせる。
水を含んだ海綿をそっと持ってみる。
軽かった海綿が意外なほど重くなった。
私の気分も沈んでいる。
まるで、水をしっとりと含んだ海綿の重さのように。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

清水(きよみず)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

<私が考えた歌の意味>
清水へ向かって、祇園を通る宵の道を歩く。
道すがら、桜が咲いている。
夜の道だが、月に照らされて桜の花があでやかだ。
桜見物か、人通りも多い。
今宵は、通りすぎる人がみんなうつくしい。

<歌の感想>
 不思議な作品だ。ちっとも晶子らしくない。晶子でなければ詠めない感覚的な語もないし、晶子自身を歌っている語もない。それでいながら、美しい情景と、まるでその情景の中を歩いている気分に読者を誘う力をもっている短歌だ。
 「こよひ逢ふ人みなうつくしき」という経験は、時代を越えて多くの人々が共感できる感覚だが、それをこのように表現できるということは、稀なことであると感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

細きわがうなじにあまる御手(みて)のべてささへたまへな帰る夜の神

<私の想像を加えた歌の意味>
私を残して、帰っていくあなた。
あなたの大きな手で私の細いうなじを支えていてほしいの。
昨夜、一夜かぎりなんて、言わせないわ。

<歌の感想>
 自分を置いて、帰ってしまう恋人との別れを表現しているのではないだろう。今朝は、別れゆくが、あなとの恋を諦めはしないという気持ちを感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾(みすそ)さはりてわが髪ぬれぬ

<私の想像を加えた歌の意味>
「もう行くよ」、私をおいて部屋を出ていくあなた。
あなたの服の裾が私の髪に触れる。
止めても無駄と思えば、涙がこぼれる。

<歌の感想>
 歌の意味を散文にすると、できの悪い歌謡曲風になってしまった。晶子は、男の言うままになる弱い女性ではないはずなのに。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花(ばいくわ)のあぶら

<私が考えた歌の意味>
恋にふけった一夜が明ける。
夕べの気配を残しつつ明けていく部屋に、はっきりわかるこの香りは、私の髪あぶらでしょう。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

水に寝し嵯峨の大堰(おほい)のひと夜神(よがみ)絽蚊帳(ろがや)の裾の歌ひめたまへ

<私の想像を加えた歌の意味>
嵯峨大堰川の水辺の宿で、あなたと一夜かぎりの夜を過ごしました。
あの夜、共に入った絽の蚊帳の中で交わした恋心は人には明かさないでください。
でも、私は後悔なぞしていません。

<歌の感想>
 与謝野晶子独特の語句の使い方なのか。「ひと夜神」「歌」の意味は、感覚でのみとらえた。「ひと夜神」を「一夜夫」と同じ意味に、「歌」を「互いに交わした恋心」ととらえた。
 このような短歌を詠み、発表すれば、隠すことにはならない。だから、これが事実に基づいているかいないかなどには、興味はない。場所の設定からも、秘密にしておきたい刹那的な恋を描いていると感じる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文(ふみ)を読めりけり


<私の想像を加えた歌の意味>
妹はもう婚期を過ぎた年齢になっている。
その妹から昨日手紙が来ていたことを、朝早くに思い出した。
手紙を開くと、特段の用事が書かれているわけでなく、いろいろと細やかなことが書かれている。
誰に宛てるというのではないが、なんとなく恋文の文面のようだと思いながら、妹の手紙を読んでいる。

万葉集 巻一 46 柿本人麻呂

安騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古思ふに
あきののに やどるたびびと うちなびき いもねらめやも いにしえおもうに

<私が考えた歌の意味>
狩りにきた皇子様の一行が安騎の野を一夜の宿とされる。
この安騎の野は、今は亡きあの方々がお泊まりになった地だ。
きっと、皇子様一行は、ゆっくりと寝ることもできないだろう。
昔の方々のことを思い出してしまって。

<歌の感想>
 実際には、旅の一行は、宿営地を作り、疲れた体を休めるので、眠れないことなどないと思う。
 しかし、人麻呂は、安騎の野に来れば、その地にまつわる昔のことをたちまち思い出し、思い出すだけでなく、過去の世界を現在につないでみせた。そして、その人麻呂の思いに、他の人々(旅人)も大いに共感していると想像できる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

箸止(と)めてふつと思ひぬ
やうやくに
よのならはしに慣れにけるかな

<私が考えた歌の意味>
ごはんの途中で箸を止めてふっと思った。
この頃ようやく世の中の常識というものや、世の中の仕組みがわかってきた。
私も世渡りに慣れた普通の男になってしまった。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

空寝入(そらねい)り生欠伸(なまあくび)など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため

<私が考えた歌の意味>
眠くもないのに寝たふりや、わざとするあくびなどをどうしてしてしまんだろう。
自分の思っていることが人にばれないように、カモフラージュしているに決まっている。

<歌の感想>
 これも啄木の人間観察の一端か。こんなことを短歌にするなんて驚く。
 啄木自身も寝たふりや生あくびをするし、他人のそれを見ても同じ理由だろうと思っている様子が浮かんでくる。  

 有名ではないが、これは実際のいろんな場面で思い出しそうな作だ。日常のふとした場面で浮かんでくる短歌があるのはよいものだ。

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