万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2016年10月

 万葉集をどう訓み下すかは、専門的になり、私にはわからない。
 そこで、手元にある本で、巻一 15の訓み下し文と、口語訳の違いをみておく。

新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ
大海原にたなびく見事な旗雲に夕日が強く差して、今夜の月は明るくさやかであってほしい。

日本古典文学全集 萬葉集 小学館
わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
大海原の 豊旗雲に 入日を見たその 今夜の月は 清く明るくあってほしい

日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店
わたつみの豊旗雲に入日見し今夜の月夜さやに照りこそ
大海の豊旗雲に入日の差すのを見た今夜は、月もさやかに照って欲しいものである。

口訳萬葉集 折口信夫
わたつみの豊旗雲に入日さし、今宵の月明らけくこそ
海の上に、大きな雲が広がつてゐる。その雲に落日がさす位の天気になつて、今夜の月は、明らかであつてくれ。


 古典は、原文そのものが何通りもある。さらに、それをどう訓(よ)み下すかで、歌の意味がまるっきり違う場合もある。
 そこが、またおもしろい。

 巻一の13、14は、男性二人と女性一人の三角関係を山にたとえているが、どう解釈するかで、山それぞれの性別さえもまるっきり違ってしまう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも

<私の想像を加えた歌の意味>
ずいぶんとみすぼらしい奴が歩いてきたなあ。
あっ、あれは鏡に映った俺だ。

<歌の感想>
 こういう経験をする人は多い。しかし、短歌としての技量の高さは他の人の及ぶものではない。
 「ふと驚きぬ」で、その時の作者の気持ちが読者の心に入り込む。
 「みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも」もなんともよい。実際には、立ち止まって、止まっている姿を鏡で見ているのだろう。だが、この表現から、啄木がみずぼらしげに歩く自己をまざまざと鏡に見ていることが、伝わってくる。
 私なら、こういう場合はせいぜい姿勢を正してそそくさと鏡屋の前から立ち去るだけだ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

怒(いか)る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九(くひゃくくじふく)割りて死なまし

<私が考えた歌の意味>
怒れ。怒れ。
一度怒る度に鉢を一個思い切り割ってやる。
死ぬまでには、九百九十九は割ってやろう。

<歌の感想>
 怒る度に鉢を割るという発想がおもしろい。怒りを肯定し、怒りを後に残さない。九百九十九という回数もなんとなく親しみを感じる。 

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何処(どこ)やらに沢山の人があらそひて
鬮(くじ)引くごとし
われも引きたし

<私が考えた歌の意味>
どこかで騒々しく沢山の人々が争っているようだ。
どうも、宝くじをやっているらしい。
当選すれば大金をもらえるというそのくじを、私も引いてみたい。

<私の想像を加えた歌の意味>
世間の人々は、自分だけの利益を求めて常に争っている。
だが、うまい話なぞあるわけがない。
くじ引きの一等を欲しがるようなもので、そんなことはごくごくまれなことだ。
とは、わかってはいるのだが‥‥
私も、少しでも可能性があるなら、自分だけが儲かるようなことをやってみたい。

<歌の感想>
 啄木は、大勢に流されることを嫌っている。嫌っていながら、世間がこぞっておもしろがることには加わってみたい気持ちにもなるのだろう。
 自己の気持ちの変化を、自在に表現できるところは、稀な歌人だと思う。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

高山(たかやま)のいただきに登り
なにがなしに帽子をふりて
下(くだ)り来(き)しかな

<私が考えた歌の意味>
山の頂上まで登って来た。
なんということもなく帽子を振ってみた。
そして、山を下った。

<歌の感想>
 行動だけが表現されている。一見作者独特の無目的な行動のようだが、少し雰囲気が違う。登山ではなく、散策のついでに登った丘のような小さな山の頂上を想像する。
 「高山」は、散文の意味として考えればふさわしくないのであろう。だが、この短歌では低い山であっても、小さな山であっても、「高山」がふさわしい。「高山」によって、啄木の何ということもない気分のよさが伝わってくる。声には出さずに「おーい、おれはここにいるぞー」と帽子を振り、叫んでいる姿が浮かんでくる。
 啄木は、この作にあるような明るさと、どこかおどけたものをもっている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

ふと深き怖(おそ)れを覚え
ぢつとして
やがて静かに臍(ほぞ)をまさぐる

<私の想像を加えた歌の意味>
理由は分からない。
深い恐怖を感じた。
どうしようもなくなって、ただじっとしていた。
何事も起こらない。
怖れの原因もわからない。
自分で、自分のへそをさわってみた。
怖れが去りはしないが、たえるために。

<歌の感想>
 実に個人の感覚だ。何の事実も描かれていない。感情といえばそうだが、喜怒哀楽とも違う。漠然とした恐怖感だけが表現されている。そして、どこかおどけている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

まれにある
この平(たひら)なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴く

<私の想像を加えた歌の意味>
不思議だ。
毎日聞く柱時計の時の音がいつもと違っている。
なんだかおもしろい音だ。
なんだかゆかいな音だ。
こういうことがごくたまにある。
めったにないが、今は心が穏やかで、和やかだ。

<歌の感想>
 悲しんだり、怒ったりが啄木の常態なのだ。そのいつもの心情である悲しみや怒りや不安が短歌に表現される。そして、稀なことではあるが、平穏な心情もまた作品になる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

大木(たいぼく)の幹に耳あて
小半日(こはんにち)
堅き皮をばむしりてありき

<私の想像を加えた歌の意味>
大木を見上げる。
大木に触ってみる。
大木の幹に耳を当ててみる。
何も聞こえない。
いや、かすかにかすかに何か聞こえる。
大木の幹は堅い樹皮で覆われている。
堅いその皮をむしってみた。
ポロポロと乾いた皮がむけ落ちる。
大木のそばでもう半日近くも過ごしている。

<歌の感想>
 啄木は意味も目的もないことをやり続ける。蟹とたわむれる。砂山の砂を掘る。砂浜の砂を握りしめる。愛犬の耳を斬る。大木の皮をむしる。
 振り返れば、私も意味も目的もないことをやり続けている。

万葉集 巻一 15

わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけかりこそ
わたつみの とよはたくもに いりひさし こよいのつくよ さやけかりこそ


<私の想像を加えた歌の意味>
見渡す海の空には、雲がはためくように広がっている。
そののびのびと広がる雲を、海に沈む陽が照らす様子が目を奪う。
この夕日が没したのちは、雲ひとつない夜空に月が浮かび、海面を明るく照らす景色を見たいものだ。

<歌の感想>
 由来がよく分からない短歌のようだ。作者も反歌なのかどうかもはっきりとは分からないが、描いている情景が大きく、イメージも湧いてくる。それと、同時にこの作も、権力者の継承などの背景がありそうな気もする。
 表現されている情景と作者の思いだけでなく、ここにも政治的な期待があるとしても、作品が描いている雄大な情景の価値は変わらないと思う。

万葉集 巻一 14

香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原
かぐやまと みみなしやまと あいしとき たちてみにこし いなみくにはら

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山と耳梨山が、互いに畝傍山を妻にしたいと争った時に、この争いを止めさせるために大神が出てきてくださいました。
その大神が出てこられた所が、ここ印南国原です。
私たちの争いにも、神様が出ておいでになり、正しい決着をつけてほしいものです。

<歌の感想>
 長歌13と反歌14で、作者は自分のスキャンダルを暴露している。ところが、「これは例の争いのことですね」と周囲から言われれば、「いいえ、神代の話を歌にしたまでですよ」と澄ましている。
 万葉集の雑歌には、別のことにかこつけて、自分の真意を披露する要素がある。もっと言うと、純粋に個人の感情や行為を歌で表現するということはなかったように感じる。

万葉集 巻一 13

香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき
かぐやまは うねびをおしと みみなしと あいあらそいき

神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ
かみよより かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ

うつせみも 妻を 争ふらしき
うつせみも つまを あらそうらしき

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山は前々からうねびを妻にしようとしていた。
そこへ自分こそが、うねびを妻にするのだと、みみなしが出しゃばってきた。
香具山は、うねびをやすやすと奪われたくないので、みみなしと争った。
神の時代からこういう争いがあったと言い伝えられている。
昔から、こういう話があるのだから、今の世でも一人の女性のことで二人の男性の争いがあっても不思議ではない。

<歌の感想>
 三山の性別についても、様々な説があり、どれをとるべきかの判断がつかない。根拠はないが、香具山を男性で作者、畝傍を女性、耳梨を横恋慕する男性ととらえて、歌の意味を考えた。
 妻と決めていた女性を奪われそうになっている作者を想像した。だから、この長歌には、もう決まっている二人の仲を裂こうとする嫌な奴がいるのです、という作者の嘆きもありそうだ。
※本文は、新日本古典文学大系 岩波書店によった。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

森の奥より銃声聞こゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

<私が考えた歌の意味>
遠く森の奥から銃声がした。
なんとも悲しむべき音だ。
あれは自殺の銃声か。
あの悲しい音に今の私は心ひかれる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

わが髭(ひげ)の
下向く癖がいきどほろし
このごろ憎き男(をとこ)に似たれば

<私の想像を加えた歌の意味>
ひげを整えようと鏡を見る。
どうして俺のひげは下を向いてしまうんだろう。
どうそろえても、ひねりあげてもだらしなく下を向いてしまう。
しまいにこのひげに腹が立ってくる。
最近憎らしくてしようがないあの男のひげに似ているんだもの。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

<私の想像を加えた歌の意味>
気持ちのいい天気だなあ。
芝生に寝転んで何も考えずにいられる。
晴れた空に雲が浮かんでいる。
こんな穏やかな気持ちになるなんていつ以来だろう。
ウン?なんか冷たいモノが額に。
フンだ。鳥のフンだ。
あの鳥だな。
人にフンを引っかけておいて、悠々と空を遊びまわっている。
いつもなら腹が立つのに。今日は腹も立たないなあ。
こんな日もあるんだなあ。
もう少し寝転んでいこう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗へば心戯(おどけ)たくなれり

<私が考えた歌の意味>
なみだは不思議だ。
泣いて泣いて、なみだなみだの時を過ごす。
そうするうちに、なみだが心を洗うので、おどけたい気持ちになってきた。

<歌の感想>
 この短歌は、『一握の砂』の25番目の作だ。25首の中で、作者の行為としての「泣く」「なみだ」の語があるのが、6首だ。
 『一握の砂』は、なみだの歌集だ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

鏡とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時

<私の想像を加えた歌の意味>
鏡に向かっていろいろな顔をしてみる。
泣き顔、ほほ笑む顔、笑い顔、怒った顔、まじめな顔、ゆがめた顔、そしてまた泣き顔。
いつもいつも悲しい顔をしている。
心の内はいつもいつも泣き顔だと思うので。

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