万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2016年09月

万葉集 巻一 6  5の反歌

山越しの 風を時じみ 寝る夜落ちず 家なる妹を かけて偲ばゆ
やまごしの かぜをときじみ ぬるよおちず いえなるいもを かけてしぬばゆ


<口語訳>日本古典文学全集 万葉集 小学館より引用
山を越えて来る 風が絶え間もないので 毎晩いつも 家にいる妻を 心にかけて思った

<私が考えた歌の意味>
山を越えて吹きおろして来る風は止むことがない。
その風と同じく止むことなく夜ごとに家にいる妻のことを心の内で恋い慕っている。

<私の想像を加えた歌の意味>
夜になるとどうしても妻のことばかり思ってしまう。
言葉には出さないが、心は妻のことでいっぱいになる。
旅先のこの山から故郷の方角へ吹く風は止むことがない。
家にいる妻を思う気持ちも止むことがない。

<歌の感想>
 行幸の地では、生活は不自由であり家との通信手段はない。天皇に付き従っているとはいえ、家へ帰りたい、妻と夜を過ごしたいという作者の思いは強い。
 旅先、赴任先で、故郷の恋人や妻を恋しく思う気持ちは共感を得るものだったろう。長歌、短歌の題材として最もふさわしいものの一つであったと言えそうだ。

万葉集 巻一 5

霞たつ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず
かすみたつ ながきはるひの くれにける わずきもしらず

むら肝の 心を痛み ぬえこ鳥 うらなけ居れば
むらぎもの こころをいたみ ぬえこどり うらなけおれば

玉だすき かけの宜しく 遠つ神 我が大君の
たまだすき かけのよろしく とおつかみ わがおおきみの

行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に
いでましの やまこすかぜの ひとりおる あがころもでに

朝夕に かへらひぬれば ますらをと 思へる我も
あさよいに かえらいぬれば ますらおと おもえるあれも

草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに
くさまくら たびにしあれば おもいやる たずきをしらに

網の浦の 海女娘子らが 焼く塩の 思ひそ燃ゆる
あみのうらの あまおとめらが やくしおの おもいそもゆる

我が下心

あがしたごころ

<口語訳>日本古典文学全集 万葉集 小学館より引用
霞の立つ 長い春の一日が いつ暮れたのか 分からないほど (むら肝の) 心が苦しいので (ぬえこ鳥) 胸のうちで泣いていると (たまだすき) 言葉だけでも嬉しいことに (遠つ神) わが大君が 行幸なさっている この山を越えて来る風が ひとりきりの わたしの袖に 朝な夕な 故郷の方へ吹き返って行くので 偉丈夫だと 思っているわたしだが (草枕) 旅先にあるので 憂いを晴らす すべもないまま 網の浦の海人の 娘たちが 焼く塩のように 苦しく燃え続ける わたしの胸の内は 

<私の想像を加えた歌の意味>
長い春の一日がいつ暮れたのかわからないほど心が痛む。
妻と離れてひとりきりの私の心のうちを、朝に夕に故郷に届けるように、風が吹いて来る。
私の胸の内を妻のもとに届けてくれるのは、わが大君が行幸されているこの山を越えて吹き来る風だけだ。
旅先で妻を思う気持ちは強まるばかりだ。

万葉集 巻一 4

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野
たまきわる うじのおおのに うまなめて あさふますらん そのくさふかの

<口語訳>口訳萬葉集 折口信夫より引用
宇智の地の広い原に、馬を並べて、朝歩きまわっていられることであろう。あの草の深い野を。

<私の想像を加えた歌の意味>
広く美しい宇智の大野を、たくさんの馬を並べて天皇と配下の者たちが出立する。
すがすがしい朝の空気の中、いさましく馬を進める。
広く草深い野を踏み分けて進む馬上の天皇はすばらしい。

<歌の感想>
折口信夫は、次のように解説している。

一糸乱れぬ修辞は、感嘆すべきことである。ただし、既に漢文脈を引いたような、変化に乏しい、という難はのがれない。

 この解説が分かりやすい。3の長歌と4の反歌は、歌に求められていること、歌の役目がはっきりしているのだ。そこには、作者が見て感動した風物と作者の心情を表現することは求められていない。そのかわり、歌に求められた天皇のすばらしさを表現するというねらいは、見事になされていると感じる。、

万葉集 巻一 3

やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ
やすみしし わがおおきみの あしたには とりなでたまい

夕には い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の
ゆうべには いよりたたしし みとらしの あずさのゆみの

中はずの 音すなり 朝狩りに 今立たすらし 
なかはずの おとすなり あさがりに いまたたすらし

夕狩りに 今立たすらし みとらしの 梓の弓の
ゆうがりに いまたたすらし みとらしの あずさのゆみの

中はずの 音すなり

なかはずの おとすなり

<口語訳>日本古典文学全集 万葉集 小学館 より引用
(やすみし) わが大君が 朝には 手に取って撫でられ 夕べには そのそばに寄り立っていらした ご愛用の 梓の弓の 中はずの 音が聞こえます 朝狩りに 今お発ちになるらしい 夕狩りに 今お発ちになるらしい ご愛用の 中はずの 音が聞こえます

<私の想像を加えた歌の意味>
わが大君はなんとすばらしいことか。
早朝の狩りに行く姿の素晴らしさよ。
夕方の狩りに行く姿の頼もしさよ。
愛用の弓の音が響き渡る。
他の誰よりも音高く大君の弓の音が響き渡る。

<歌の感想>
 原文から離れて、この長歌のねらいを考えてみた。枕言葉も対になっている表現法も、全ては、天皇のカッコよさを、「遊猟(みかり)」に行かなかった人々にも伝えることがねらいだったように感じた。
 作者は、狩りをする天皇と共に行動していないであろうし、「中はず」の音も実際には聞いていないであろう。  

万葉集 巻一 2 舒明天皇御製歌

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
やまとには むらやまあれど とりよろう あめのかぐやま

登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 
のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ

海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 
うなはらは かまめたちたつ うましくにそ あきづしま

大和の国は
やまとのくには

<口語訳>日本古典文学全集 万葉集 小学館 より引用
大和には 群山があるが 特に頼もしい 天の香具山に 登り立って 国見をすると 広い平野には かまどの煙があちこちから立ち上っている 広い水面には かもめが盛んに飛び立っている ほんとうに良い国だね (あきづ島)  この大和の国は

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山は、大和では一番の山である。
その香具山に登り、大和の国の様子を見おろした。
広い平野からは、かまどの煙があちこちで立ち、人々の暮らしは豊かである。
広い水面から、かもめが盛んに飛び立ち、水辺の草木動物は豊かである。
すべてが整っている国だ。
私が統治している大和の国は。

<歌の感想>
 「国見」は、天皇の政治的行事と解説されている。政治的な行事に伴った長歌であるから、内容は形式的なものだろう。
 ただし、この作品は型通りでつまらないという感じはない。国見という行事の際に、長歌を詠むことがされ始めて間もないのではないかと思う。国見の行事が毎年行われ、その度に長歌を作るとなると、それはだんだんにマンネリになり、形式的になる。しかし、そういう行事が成立した頃は、行事に伴う長歌そのものもまた新鮮だったと思う。
 大和という国の形ができあがりつつあり、まだまだこれから発展させようという時代の流れを感じる。

万葉集 巻一 1 雄略天皇御製歌

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち
こもよ みこももち ふくしもよ みぶくしもち

この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね
このおかに なつますこ いえのらせ なのらさね

そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 
そらみつ やまとのくには おしなべて われこそおれ

しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ
しきなべて われこそいませ われこそば のらめ

家をも名をも
いえをもなをも

<口語訳>日本古典文学全集 万葉集 小学館 より引用
籠も 良い籠を持ち ふくしも 良いふくしを持って、この岡で 菜を摘まれる乙女子よ ご身分は 名も明かされよ (そらみつ) この大和は ことごとく わたしが君臨している国だ すみずみまで わたしが治めている国だ わたしの方こそ 告げよう 身分も名前も

<私の想像を加えた歌の意味>
この岡で、菜を摘んでいるあなた。若く美しく家柄もよさそうなあなた。
私に、身分と名前を明かしなさい。
この岡は、この国は、すべて私が治めている国なのです。
ここ大和は、すみずみまで私が治めている国なのです。
あなたが名前を言う前に、私が言うべきでした。
私こそ、この国の天皇ですよ。

<歌の感想>
 とにかく、自分が大和の統治者であることを表現したいのである。ただし、それを誰に向かってどんな場面で表現したかに注目したい。
 政治的な意味が強ければ、それまでは服属していなかった人々に向かって表現する形式になるであろう。権力の誇示を狙うのであれば、天皇に仕えている宮廷人に向かって表現するであろう。
 ところが、名前もわからない若い女性に向かって「我こそば 告らめ」としている。ここでは、このようなことがあったかどうかを云々する必要はない。天皇が、この国は私が治めている国なのです、と歌い上げるのに、春の丘と若菜を摘む乙女を登場させるのがふさわしかったのである。
 万葉集が現代でも愛される理由がここにもあると思う。

山家集 上巻 春 37 7018

この春は 賤が垣根に ふればひて 梅が香とめん 人親しまん
このはるは しずがかきねに ふればいて うめがかとめん ひとしたしまん

<口語訳>
この春は、梅の香りを求めて、我が家の粗末な垣根に近寄って来た人と親しくなろう。

<意訳>
ただ通りがかっただけの人が、我が家の粗末な垣根に近寄ってくれた。
梅の香りに誘われて、思わず我が家に立ち寄ってくれたのだ。
まるで我が家を訪ねて来てくれた人のように。
この春は、梅の香りだけが縁のこういう人と親しくしよう。


 「山家梅」35~37の三首で、ひとつの物語ができあがっている。
 せっかくの梅の花の香りなのに、それを一緒に楽しもうという訪問者もいない。訪ねて来た人はいなかったが、偶然に通りがかった人が我が家の梅を楽しんでいる。知らない人ではあるけれども、情趣を解するこういう人と親しく話をしてみたい。
 このようにつながっていくと感じた。

山家集 上巻 春 36 7016

心せん しづが垣根の 梅はあやな 由なくすぐる 人とどめけり
こころせん しずがかきねの うめはあやな よしなくすぐる ひととどめけり

<口語訳>
気にしておこう。家の粗末な垣根の梅の花は不思議だ。ただ通りかかっただけの人を立ち止まらせる。

<意訳>
我が家に来たわけでもない人が、垣根のそばで立ち止まっている。
そうか、梅の花の香に誘われて、立ち寄ってくれたのだ。
忘れないようにしておこう。
我が家の粗末な垣根の梅に誘われて、来てくれる人もいるということを。

 
 通りがかっただけの人が、家の梅を眺めて立ち止まった。季節の花には、縁もゆかりもない人をも引きつける魅力があるのだ。西行は、そんな状況を楽しんでいる。これは、現代でも変わらぬ気持ちだろう。

山家集 上巻 春 35 7016

香をとめん 人こそ待て 山里の 垣根の梅の 散らぬかぎりは
かをとめん ひとこそまて やまざとの かきねのうめの
 ちらぬかぎりは

<口語訳>
梅の花の香りを求めてやってくる人を待っていよう。山里の垣根の梅がすっかり散ってしまうまでは。

<意訳>
梅の花が見事に咲いて、よい香りを漂わせているのに、山里の私の庵を訪ねてくる人はいない。
この梅の花を、一緒に楽しむこともできない。
でも、誰か訪ねてくる人がいるかもしれない。
あきらめないで、待っていよう。
垣根の梅の花が散ってしまうまでは。

 せっかく梅の花が咲く季節になったのに、今日もまた誰も訪ねてきてくれなかった、という作者の気持ちを感じる。
 あるいは、山里の作者の所には訪問者がいるのかもしれない。訪ねて来てくれた人に短歌を披露するには、この作のような設定を伝える方がおもしろかったと想像もできる。

山家集 上巻 春 34 7013

片岡に しば移りして なく雉子 たつ羽音とて たかからぬかは
かたおかに しばうつりして なくきぎす たつはおととて たかからぬかは

<口語訳>
岡の斜面をあちこちへ飛び回り雉が鳴いている。雉の羽の音だから高くないわけがない。

<意訳>
岡の斜面を雉が飛び回り、鳴いている。
雉の羽音が高くないということはない。
春の野をあちこちへ飛び回りながらの雉の羽音が高く聞こえているだろう。

<意訳2>
ずうっと気になっているが、雉の泣き声を聞いただけで、野原に行く機会がない。
野原は一段と春めいてきているだろう。
その野原で、雉が羽の音も高らかに飛び回っているだろう。
出かけて行って、それを見たいものだが、今日も庵で過ごすしかなかった。

 同じような題材で、微に入り細に入り春の風物が表現されている。
 季節のことを、表現しているのだろうかという疑問がわいてくる。これは、季節を軸にした作者の日常なのではないかと思う。
 朝起きてこれをしていたら、このことが気になったということなのではないか。

 食べたものを毎日報告する人がいる。自分の料理を常に報告する人がいる。毎日の服を報告する人がいる。現代では、その媒体はSNSなどだ。
 西行の場合は、四季の変化を題材として、日々をツイートしていると感じてしまう。

山家集 上巻 春 33 7014

春の霞 いへたちいでで 行きにけん 雉子たつ野を 焼きてける哉
はるのかすみ いえたちいでて ゆきにけん きぎすたつのを やきにけるかな

<口語訳>
春霞の中出かけて見に行ってみよう。雉の来ている野で野焼きがあったから。

<意訳>
春の野の雉のことをいろいろに思っていた。
その野が春の野焼きで焼き払われたということだ。
雉はどうなったか、出かけて行って見てみたい。

<意訳2>
 春が来て、野原のことや雉のことが気になっている。でも、庵から出かけるチャンスもなかなか来ない。だから、毎日、見てもいないことを気にしつつ、想像しつつ過ごしている。
 もう、春の野焼きさえ終わってしまった。なんとか、出かけて行って野焼きのあとの原っぱを見たいと思っているんだけどなあ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

わが泣くを少女等(おとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりといふらむ

<私が考えた歌の意味>
私が泣く声を少女たちが聞いたなら、狂犬が月に向かって吠えていると思うだろう。

<私の想像を加えた歌の意味>
私の悲しみは誰にも理解されない。
理解されないどころか、嫌悪される。
少女が私の泣き声を聞いたなら、狂犬が月に遠吠えをしている、と言うだろう。
それが、私の悲しみの声だ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

<口語訳>
ふざけも混じった気持ちで母をおんぶした。
その母が軽くなっているのに気づき、涙が出てしまった。
三歩と歩くことさえできなかった。

<意訳>
よもやま話が盛り上がり、冗談混じりに母をおんぶした。
軽い。
母をおんぶすることなどなかったが、こんなに軽くなっているとは。
軽いのに、おんぶしたまま足が前に出ない。
母は、老いたのだ。
母は、弱ったのだ。

 有名な作だ。前回の訳とあまり変わらないが、より作者の感情が伝わってくるような気がする。老いた母を思いやるというよりは、親の老いを見つめている眼を感じる。
 「三歩あゆまず」には、母をこれから一層大切にしようという気持ちよりは、人間の老いを悲しむ心情を感じる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
父と母
壁のなかより杖つきて出づ

<口語訳>
明かりのない部屋に独りでいる。
闇の中、父と母があらわれた。
暗い壁の中から、二人とも杖をついた姿でうかんでくる

<意訳>
父母に長年会っていない。
独り、明かりのない部屋にいると、父母のことに思いがいく。
闇の中から父と母があらわれた。
二人ともに杖をついた姿だ。
二人ともに老いた姿で、私の前にあらわれた。

山家集 上巻 春 32 7012

おひかはる 春の若草 まちわびて 原の枯野に 雉子なくなり
おいかわる はるのわかくさ まちわびて はらのかれのに きぎすなくなり

<口語訳>
若菜が芽吹くのを待ちきれなくて、野原の枯野で雉が鳴いている。

<意訳>
春がきたが、若菜の芽はまだ萌えださず、野原は枯れている。
若菜の芽はまだでないのに、待ちかねて雉が来ている。
春の枯野に、雉が盛んに鳴いている。


 原は、春の枯野だ。そこは、間もなく若菜の芽で緑になる。雉の鳴き声が聞こえる。姿は見えないが、雉は何をしているのだろう。
 作者の関心は、季節の到来に注がれつづけ、あらゆることが季節の変化と結びつけられている。和歌の題材として四季の変化よりも重要なものがあるものか、という意識を感じる。
 季節の変化だけを題材にした作を続けて読むと、だんだんに飽きてくる。だが、人と時代を問わず、季節の変化以上に人間にとって大切なもの、心を豊かにしてくれるものがあるか、と問われると、答えは簡単ではない。

山家集 上巻 春 31 7011

もえいづる 若菜あさると 聞ゆなり 雉子なく野の 春の明けぼの
もえいずる わかなあさると きこゆなり きぎすなくのの はるのあけぼの


<口語訳>
萌え出たばかりの若菜をあさって雉が野原で鳴いているようだ。
春の曙どきに。

<意訳>
春の曙、雉の鳴き声が野原の方から聞こえてくる。
あの雉は、芽を出したばかりの若菜をついばんでいるだろう。

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