万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

2016年07月

『一握の砂』 「我を愛する歌」  

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

<口語訳>
東海の小島の磯の白い砂浜に来た。
誰もいないこの浜辺に独りいる。
涙が流れる。
涙を拭うこともせず、蟹と遊ぶ。

<意訳>
この白い砂浜には誰もいない。私だけだ。
磯の陰から蟹が出てきた。
その蟹に触ると、蟹は驚いたように動く。
私の涙は止まらない。
独りでただ泣くことしか今の私には残されていない。
蟹とたわむれながら、悲しみに深く沈んでいく。


 「たはむる」が悲しみを増幅する。
 大人であっても、磯の蟹の動きを見つめ、その蟹に触るのはおもしろいものだ。その楽しい行為と、慰められることのない深い悲しみが同居している。おもしろく楽しい遊びが、悲しみを増幅していると感じる。

巻五 797

悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを
くやしかも かくしらませば あおによし くぬちことごと みせましものを

<意訳>
こんなことになるのなら、せめてせめて一緒に国中を旅すればよかった。

口語訳は、新日本古典文学大系 萬葉集一 岩波書店 から引用する。

後悔するばかりだ。こんなふうになると分かっていたら、(あおによし)国中のすべてを見せておくのだったのに。

巻五 796

はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなき
はしきよし かくのみからに したいこし いもがこころの すべもすべなき

<口語訳>
こんなことになってしまうとは。
私を慕って来た妻の気持ちを思うと、何を思い何をしても気持ちが安らぐことがない。

<意訳>
私を慕ってこの地までやってきたことが、永遠の別れにつながった。
妻は、私とともにいたいという思いだけだったのに。
それが、別れにつながるとは、あまりにも思いと現実が相反する。
この現実をどう受け止めればよいのか、私にわかろうはずもない。

巻五 795

反歌

家に行きて いかにか我がせむ 枕づく つま屋さぶしく 思ほゆべしも
いえにいきて いかにあがせん まくらづく つまやさぶしく おもおゆべしも



<口語訳>
妻を葬って、家に戻って私は何をすればいいのだろう。
妻をしのぶもののなくなってしまった寝室に戻っても、寂しくなるばかりだろう。

<意訳>
墓所に妻を葬った。
私がこれからすることは、家に戻るしかない。
妻がいない家で、妻のなきがらさえない寝室で、私はどう過ごせばよいのだろう。
妻がいない夜を、寂しく過ごすしかないのだ。


 いつも、口訳萬葉集 折口信夫 を頼りにしている。この作の口訳は特にすばらしいので、引用する。

家に帰ったところで、どうせうか。何もならないことだ。帰れば、閨房が寂しう思はれることだらうよ。



 人麻呂の挽歌と共通の題材だ。この短歌は、巻二216と同じ発想だ。他の作と共通の題材と発想で、短歌を創作することになんの違和感もないのであろう。
 すでにある作をまねる、あるいはかりるという意識とは異なるものを感じる。共通の発想に立ち、似た表現をとりながら、新たな歌を詠むことには現代とは違う価値があったと感じる。

巻五 794


日本挽歌一首
にっぽんばんか

大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 
おおきみの とおのみかどと しらぬい つくしのくにに 

泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず  
なくこなす したいきまして いきだにも いまだやすめず 

年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に 
としつきも いまだあらねば こころゆも おもわぬあいだに

うちなびき 臥やしぬれ 言はむすべ せむすべ知らに 
うちなびき こやしぬれ いわんすべ せんすべしらに

石木をも 問ひ放け知らず 家ならば かたちはあらむを 
いわきをも といさけしらず いえならば かたちはあらんを
 
恨めしき 妹の命の 我をばも いかにせよとか  
うらめしき いものみことの われをばも いかにせよとか 

にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心そむきて 
におどりの ふたりならびい かたらいし こころそむきて 

家離りいます
いえざかりいます


<意訳>
私の任地の筑紫に妻は一緒に住もうと来てくれた。
その妻が、筑紫に着いてまだ日数も経っていないのに、病に倒れてしまった。
慣れない女の長旅が体に堪えたに違いない。
病は一向によくならず、あっけなくそのまま帰らぬ人となってしまった。
あまりのことに私は何をどうしてよいのかさえわからない。
ただ形式的に葬送を執り行うことしかできない。
葬儀も進み、遺体が葬られることとなった。
せめて、遺体だけでも家にあるうちは、妻の存在を感じていることができたのに、それもかなわなくなった。
二人で仲良く語り合った妻はもういない。
妻は私を残してこの世を去ってしまった。
妻の存在のないこの家に私だけがいる。

  太宰帥大伴卿の、凶問に報へし歌一首
禍故重畳し、凶問塁集す。永く崩心の悲しびを懐き、独り断腸の涙を流す。但両君の大助に依りて、傾命わづかに継ぐのみ。筆は言を尽くさず。古今に嘆く所なり。

 大伴の旅人が知人の死を知らせる手紙に答えた歌一首
不幸が続き、親しい人が亡くなったという手紙が続いて届きます。いつまでもその深い悲しみから抜け出せず、独りやりきれない涙を流しています。あなたたちお二人が励まし慰めてくださるので、私は悲しみに耐えてようやく生きていけます。手紙では言い尽くせませんが、どうか私の気持ちを汲んでお読み下さい。


巻五 793 
世の中は空しきものと知るときしいよよますます悲しかりけり

<口語訳>
世の中のできごとすべてが空しいものであると思い知らされた。
もともと世の中はそういうものであるとわかってみても、つらいことに遭うと悲しみはいよいよ増してくる。

<意訳>
人の世の喜びも悲しみも空であり、もう心を動かすこともない。
その境地に至ったはずだが、親しい人の死の知らせを受けると激しい悲しみに襲われる。
人の生死もすべて空であり悲しむに値しないとわかっていても、死を悲しむ気持ちは強まるばかりだ。

 解説や注釈を読んでも「空しきもの」がわからない。仏教の思想によるものであるのだろうが、そうだとすると、渡来の体系的な思想を知れば知るほど、世の中の悲しいことは悲しいと感じるという意味合いになるのか。
 海外からもたらされた思想への作者旅人の理解は、相当に深いものだと思う。それだけに、ただありがたがるのではなく、学んだ思想を自らのものにしていると感じる。

『みだれ髪』 臙脂紫

その子二十歳櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

<口語訳>
その娘は二十歳。
櫛けずる黒髪は艶やかで、美しい。
惜しげもなく、命の輝きを放っている。

<意訳>
私は今二十歳。
人生の春、生命が輝いている。
櫛けずる黒髪は、美しさにあふれる。

 「その子」は、自分ではないであろう。しかし、他者であっても自己の二十歳の時と重ねていると感じて、意訳では作者自身のこととして訳した。

『みだれ髪』 臙脂紫

椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る

<口語訳>
椿の色も好きだけれど、梅の色も好きだけれど、なんとなくその白がしっくりこない。
私の心の罪を責めない色は、桃の色だけ。

<意訳>
椿の白も、梅の白も、けがれがなくてわたしの心の罪を責めているようだ。
私の恋する心、私の罪な心を許してくれるのは桃の色だけ。

 桃色というよりもピンクというと、なんとなくいろいろなイメージがついて回る。いったい、どの時代ころから桃色に男女間のことを指す意味が加わったのか。
 そして、桃色こそ自分を責めないと短歌で表現する晶子は特別な個性だ。

みだれ髪 臙脂紫

髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ

<口語訳>
五尺の髪を解くと水に柔らかく広がる。
少女の心も開放すると、解いた髪のようになるでしょう。
でも、少女の心は解き放つことはありません。

<意訳>
結っている長い髪を解いて湯に入ると、柔らかに自由に広がります。
私の乙女心もすべての束縛から逃れるなら、この広がる髪のように柔らかく美しく自由になるでしょう。
でも、そうすることはできません。
乙女心は秘めておくしかありません。

 束縛から逃れたいという気持ちと、思っていることをすべて明らかにはしたくないという気持ちの両方を感じる。

『みだれ髪』 臙脂紫

歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子

<口語訳>
歌の世界に尋ねてみましょう。野の花に紅い花はいやだという人がいるのかを。
それは人生の春に罪なことに心を動かす娘をいやだというのと同じではありませんか。

<意訳>
詩の中で、野に紅い花はいらない白や薄紫があればよいと書かれたものがあるでしょうか。
そんなおとなしい色だけではがまんができません。
罪とされることをしているという気持ちはありますが、若い私のこの気持ちを抑えることなどできないのとおなじように。

 「罪もつ」とは、当時の社会では罪とされていた相手のある人に恋することと感じた。

 鶯を題材にした西行の和歌を読み、万葉集での鶯の歌を何首か探してみた。近代ではどうかと思い、『みだれ髪』を初めて開いた。
 驚いた。
 何首読んでも、すんなりと理解できる作品がないのだ。記事で取り上げた作はまれなわかる作品だった。
 『赤光』と『一握の砂』は、七割から八割は一読で一応の理解ができる。『みだれ髪』は、作品の一割も理解できない。意味がとれない。
 だが、なんとなくおもしろい。言葉の組み合わせの個性と独特のリズムを感じる。
 『みだれ髪 チョコレート語訳』 俵万智 を購入した。これは、役に立つ。
 私はチョコレート語とはいかないが、俵万智の訳を頼りに与謝野晶子を読んでみようと思う。

みだれ髪 臙脂紫 与謝野晶子


夜の帳にさざめき尽きし星々の今を下界の人の鬢のほつれよ

<口語訳>
夜のとばりにつつまれてささやき尽くした星々の今この時を、下界では人の髪のほつれが。

<意訳>
天空では星々が夜のとばりにつつまれて思う存分ささやき合っている。
下界では、その同じ時を、人もささやき合って過ごしている。
人に知られぬようにしているのだが、髪がほつれるほど親密にささやき合っている。

 訳が困難だ。人によって全く別の受け取りになるだろう。だいたいが、「臙脂紫」(えんじむらさき)という小題が読めなかった。「下界の人」は、晶子自身と受け取った。

みだれ髪 蓮の花船 与謝野晶子


鶯に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき

<私の想像を加えた歌の意味>
鶯の鳴き声が京の山に聞こえている。
早朝の山なのに寒さはなく、春の朝だ。
椿の花が散った山路が続く。その散った椿を踏み二人連れが歩いてくる。
二人は夫婦だろうか、恋人だろうか、仲睦まじく連れ添っている。

<歌の感想>
 当然といえば当然だが、万葉集や西行の鶯の歌とくらべると新しい感覚だ。どこが新しいとは私にはまだわからない。
 与謝野晶子の短歌では、「おち椿ふむ人」のことを見ているのだが、その情景を描いているだけではない。その二人を見て「むつまじき」と感じている作者の存在がはっきりと伝わってくる。このような作者個人の感覚こそが作品の中心であるところに、万葉集の歌との違いを感じる。
 一方で、鶯の鳴き声がもたらす季節感は、万葉集とも西行とも明確につながっていると感じる。

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