万葉集 巻一 47 柿本人麻呂

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し
まくさかる あらのにはあれど もみちばの すぎにしきみが かたみとそこし

<私の想像を加えた歌の意味>
今、ここは、ただの荒れた野です。
時を遡れば、ここで、亡き皇子が狩りをなさいました。
亡き皇子の立派なお姿が、亡き皇子の深い思いが、よみがえります。
亡き皇子の遺志を思い起こすために、ここに来たのです。

 枕詞の効果を味わうことは、現代人にはできない。
 しかし、この短歌の枕詞からは、何かが伝わってくる。「ま草刈る荒野」からは、ただの荒野ではなく、「昔の出来事が語り継がれている荒野」という感じがする。「黄葉の過ぎにし」からは、「立派な業績を残し、惜しまれて亡くなった」という感じがする。
 想像でしかないが、枕詞の効果も含めて、この短歌に上のような意味が込められている、ととらえた。

 一方では、余計な想像を加えないで、次のように素直に受け取ることもできる。

ただの荒野だが、亡き皇子の形見の場所なのでやって来たのです。

 このように、とらえても、草深い荒野と、荒野を行く皇子と供の人々の思いが浮かんでくる。
 また、45から49の長歌短歌を一連の作として味わうことも大切だと思う。