2016/7/31の記事を改めた。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

<私が考えた歌の意味>
東海の小島の磯に来た。
心は悲しみに満ちている。
悲しみの心のまま、白砂の上で、私は蟹とたわむれる。

<私の想像を加えた歌の意味>
ここは東海の小島の磯。
磯の白砂で一人佇んでいる。
悲しい。
悲しみがとめどなく心に満ちる。
見ると、白砂の上に小さな蟹が出てきた。
私は、その蟹に触る。
蟹は、触られて動く。
また、私は蟹に触る。

悲しみは尽きない。

私は、蟹とたわむれる。

<歌の感想>
 以前の記事では、「泣きぬれて」に注目して、啄木の深い悲しみの心境が表現されていると受け取った。その後、『一握の砂』を読み進めると、それとは違うものを感じるようになった。
 『一握の砂』の短歌の特徴として、次のことに気づく。啄木は、一首の中で、自己の行為や動作を具体的に示している。そして、短歌に描かれている行為や動作と、その時の状況が、事実そのままかというと、そうとは感じられない。むしろ、自己の行為や動作と任意の状況や場面とを、自在に配置している、と思う。
 
 この短歌では、「蟹とたはむる」が最大の特徴だ。
 蟹とたわむれているのが、明るく賑やかな海岸であれば、当たり前の風景だ。また、暇でぼんやりしている時に蟹が出て来たのでたわむれた、というのも平凡なことだろう。
 「泣きぬれて」いながら「蟹とたはむる」のは、啄木にしか描けない世界だと感じる。そして、そのことが事実そのままであるか否かは、作品の価値には影響しない。
 この行為と、その時の心境と状況が、新奇なことを狙っただけの配置か、と言うとそうではないと思う。
 この短歌が多くの人々の共感を長く得ているのは、作者の行為「蟹とたはむる」と、心境「われ泣きぬれて」と、状況「東海の小島の磯の白砂に」が、深く共鳴し合っているからだと思う。

 人は、最も愛する人と別れても生きていかねばならない。人は、人生で経験したことのない悲しみに沈んでいても、時が経てば、腹は空くし、眠りもする。
 深い悲しみに押しつぶされていても、その中で生きていく心が、この作品に描かれていると感じる。