万葉集 巻一 45 柿本人麻呂

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子
やすみしし わがおおきみ たかてらす ひのみこ

神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて
かんながら かみさびせすと ふとしかす みやこをおきて

こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を
こもりくの はつせのやまは まきたつ あらきやまじを

岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 
いわがね さえきおしなべ さかどりの あさこえまして

玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に
たまかぎる ゆうさりくれば みゆきふる あきのおおのに

はたすすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす
はたすすき しのをおしなべ くさまくら たびやどりせす

古思ひて
いにしえおもいて


<私が考えた歌の意味>
すばらしい皇子様は、都を後にして、ここまでお進みになられました。
荒れた山道を登り、泊瀬の山を朝早くに越えられました。
夕方には雪の降る安騎の大野に着かれました。
ここで旅の宿りをなさいます。
皇子様と同じように、遊猟をなさった昔の方々のことをお思いになりながら。

<歌の感想>
 詠まれていることの要点は、上のようなことだと思う。
 あとは、当時の人々にしか分からないその語から、思い浮かぶ共通のイメージをもつ語なのだろう。
 今は、「メッチャメッチャうまい」と聞けば、食べてすぐ伝わるような、いわば安直な味をイメージできる。「秘境知床観光」と聞けば、詳しく説明されなくても自然のままを味わうことのできる場所をイメージする。その「メッチャメッチャ」には、「非常に」などでは表現できない何かがある。「秘境」は「観光」とは本来は矛盾する語だが、なんとなく受け入れることができる。このようなはたらきをする語が、どの時代にもあったのではないかと想像してみた。
 そして、最後の句「古思ひて」に人麻呂独特の発想を見ることができる。人麻呂は、常に過去と現在を自在に往来できる作者だと感じる。