万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

巻三 401

大伴坂上郎女、親族を宴する日に吟ふ歌一首
おおともさかのうえのいらつめ、うがらをえんするひにうたううたいっしゅ

山守りが ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結ひの恥しつ    
やまもりが ありけるしらに そのやまに ゆいゆいたてて ゆいのはじしつ    



 万葉集の特徴は、素朴で力強く、技巧や理屈にはしらない歌風と思い込んできた。
 だが、そうではない歌も数多い。そして、定型的で儀礼的なやりとりに終始している作品からも、かえってその作者の生き生きとした姿が浮かんでくるように思う。
 401の作も歌をやり取りした相手との関係や、前後の事情を調べた解説を併せて読むと、次のように感じられる。

あの山がもう別の人の所有になっていて、山の管理人さえ置いていたことをちっとも知りませんでした。
知らぬこととはいいながら、私が先に見つけたと思い込んで、私有地という印をつけてしまいました。
先走って、よく調べもしないで、ああ、なんて恥ずかしいことをしてしまったのかしら。

 この作には、次のような背景があるということだ。

私の娘の婿には、あの人がよいと勝手に決めて、そのための準備をいろいろと始めました。
ところが、よくよく聞いてみると、あの男性にはもう愛人がいて、そのことは世間ではよく知られたことというじゃありませんか。
あの人を娘の夫になどと、他の人にも言ってしまい、本当に先走って、恥ずかしいたらありません。

 娘の結婚相手を、見誤っていることを、周囲の人は教えてくれなかったのであろう。その男に既に愛人がいたことを偶然耳にした作者は、恥ずかしいというよりも腹の立つ思いだった。その恥ずかしさや腹立ちを、宴会の席でさらりと歌にして、周囲に示した。
 この歌を見た人たちは、あれっ、こんなことがあったのか、とはじめは不審な顔をした。だが、ああこれは、あのことだな、とだんだんに気づきはじめた。「結ひの恥」が山のことではなく、娘の結婚相手と見込んでいた男のことであろうとわかってくる。そうすると、その場の人々は、彼女の歌の巧さを褒める雰囲気になった。そういう様子が想像できる。
 身分が高く、教養も権力もある作者が、自分の恥をさらしつつ、面目を取り戻した気持ちになっているのを感じる。



巻三 402

大伴宿禰駿河麻呂の即和ふる歌一首
おおとものすくねするがまろのすなわちこたうるうたいっしゅ

山守りは けだしありとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも
やまもりは けだしありとも わぎもこが ゆいけんしめを ひととかめやも 


たとえ他人の所有で管理人を置いていたとしても、あなたがつけさせた私有地の印を、外す人がいるでしょうか。
後から印をつけた方が大伴坂上郎女様と知れば、前の持ち主はそこを明け渡すにきまっていますよ。

 この作も解説を参考にすると、娘の婿にと見込まれていた本人の作だとする説もある。そうなると、当然に結婚の相手についての話になり、いろいろな想像ができそうである。
 原文からは離れてしまうが、なかなかに複雑で裏のある事柄が歌によって表現されている。

※解釈、解説は諸説ある。私は、自分にとって分かりよいものを参考にしている。

木綿畳手に取り持ちてかくだにもわれは祈ひなむ君に逢はじかも
大伴坂上郎女

ゆうだたみ てにとりもちて かくだにも われはこいなん きみにあわじかも
おおとものさかのうえのいらつめ


気持ちを集中させてこんなにも一心不乱にお祈りをしています。
天候の順調を願い、作物の豊作を願い、一族の繁栄を願い、あらゆることがうまくいくように全身全霊で祈りました。
でも、そんなにすべてがうまくいくものでしょうか。
だいたい、私にふさわしい男性が現れてほしいという、私一人の願いさえ叶いそうもありませんから。

※私の勝手な受け取り方です。しばらく、万葉集で最も多くの歌を残している女性である大伴坂上郎女の作品を読んでみます。

黒髪に 白髪交じり 老ゆるまで かゝ恋には いまだあはなくに
くろかみに しらかみまじり おゆるまで かかるこいには いまだあわなくに



艶めいていた私の黒髪も白髪が交じるようになりました。
年を取ったことをつくづく感じます。
そんな年齢になってこんなにもあなたに恋するなんて。
若いころにはなかったほどの恋心です。

 老いた女性からの強い恋情の表現ととれる。でも、素直な心情とは言えない。相手からの歌に返した作だから、どこかに冷静さと相手の歌に応じるしたたかささえ感じる。
 だからと言って、表現技巧だけのものとも受け取れない。白髪は、実際に感じていることだろうし、相手のことを憎からず想っていると思う。
 「いまだあはなくに」には、人生経験を積んだ女性の恋心が込められている。

 男性からの歌(559)が、どことなく理屈ぽく女性よりも優位に立とうしている感じがするのに比べると、格段に気持ちが伝わってくる作だ。

事もなく 生きましもの を老いなみに かかる恋にも 我はあへるかも
こともなく いきましものを おいなみに かかるこいにも われはあえるかも

これまでは平凡で無難に生きてきました。
それが、いろいろと経験を積み、それなりの年齢になった今、こんなにも激しい恋心をもつとは思いませんでした。
それほどの思いで、あなたのことを恋しく思っているのですよ。

 この作に呼応している歌(563)と対で見ると、経験のある男女が互いに年齢を逆手にとって、駆け引きを楽しんでいるように感じられる。この作者は、次のように思ってこの歌を作ったと感じた。

 この年齢になると、よく使われる表現の仕方では、彼女に思いは通じないだろうなあ。それならいっそ年を取ったことを歌に詠みこんで、彼女の心を揺さぶってみよう。

この世には 人言繁し 来む世にも 逢はむわが背子 今ならずとも
このよには ひとごとしげし こんよにも あわんわがせこ いまならずとも  


この世であなたと私がいっしょになるには世間の口がうるさすぎます。
互いの事情をかなぐり捨てて、別の世界で暮らしましょう。
今でなくても、来世であっても、あなたといっしょになれるならそれでも私はかまわない。  

 時代が違えば心中ということか。心中という言葉も行動も最近は聞かなくなった。恋する二人を妨げる世間がなくなったからなのだろうか。今の日本に恋する二人を妨げるものは少ない。

 万葉の時代は、物理的な距離さえもが二人をいっしょにさせない要素になっている。「人言繁し」とあるように、他人の言葉やこの時代の男女間の風習も、恋人同士を自由に行き来させない要因になっている。ただし、古代であろうとも、歌にするということは、自分の思いを表現によって、恋の相手と他の人にも伝えるということである。それゆえ、想いの強さを「今ならずとも」と相手に示すところに、作者の意図がある。
 こういう表現を相手から示されると、まんざらでもないという気分を通り越し、「おもいなあ。」と感じてしまうかもしれない。

わが背子に または逢はじかと 思へばか 今朝の別れの すべなかりつる  
わがせこに またはあわじかと おもえばか けさのわかれの すべなかりつる


今お別れをすると、もう二度と逢えないような気がします。
だからなのでしょうか、今朝のあなたを見送るとき、優しい言葉をかけようとしても、笑顔をつくろうとしても、どうしてもできません。
なにもできなくてただ見送るのが、精いっぱいでした。

本屋のとなりは写真館 のカテゴリー「万葉集 私なりに読む」を移転、独立させました。


 口語訳のような文章になっていますが、口語訳や解釈ではありません。私なりに、万葉集の歌から受け取ったことや、万葉集についての口語訳や注釈から理解できたことを書いていきます。

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