万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

万葉集 巻三 255

天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
あまざかる ひなのながじゆ こいくれば あかしのとより やまとしまみゆ 

<私の想像を加えた歌の意味>
都からはるばる離れた辺境の地に赴かざるをえなかった。
華やかさも心をなぐさめるものもないこの地方から、ようやく都、大和に戻れることになった。
大和を目指して、旅を続けるが、なかなか大和は近づかない。
長い道すがら、大和への恋しさだけが募る。
明石海峡に入ると、ようやく大和の地が遠くに見えてきた。
恋しい大和の地に近づいたことがなんともうれしい。

新年の一月も最後の週に入った。
ずいぶんと、更新していなかった。
別に何があったわけでもないが、言い訳をするなら、雪かきで体力を消耗していた。
でも、今年もこのブログを更新していくつもりに変わりはない。
「万葉集」と「一握の砂」と「みだれ髪」それにしばらく読んでいない「山家集」を軸に短歌を味わっていく。
「一握の砂」と「みだれ髪」は、今年中に読み終わりたい。
とにかく遅く、うろうろするのが、私のやり方だ。
今年も訪問してくださる方を励みに、短歌の世界のほんの一端に触れ続けたい。

万葉集 巻三 254

灯火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
ともしびの あかしおおとに いらんひや こぎわかれなん いえのあたりみず

<私の想像を加えた歌の意味>
私たちの乗る船が、明石海峡に近づいてくる。
明石海峡を過ぎると、もう都とは異なる地にすっかり入ったことになる。
明石海峡に入ってしまえば、家のある方を見ることもできなくなる。
明石海峡に入るときには、これが最後だからと家の辺りを見ることもしないうちに、船は進んでしまうのだろう。

万葉集 巻三 202

稲日野も 行き過ぎかても 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
いなびのも ゆきすぎかてに おもえれば こころこいしき かこのしまみゆ

<私が考えた歌の意味>
稲日野の景色がよくて、通り過ぎるのを残念に思っている。
稲日野を過ぎ去るのを惜しく思いながらも旅を続けていると、今度は加古の島が見えて来た。
前から訪れるのを楽しみにしていた加古の島に近づいた。

万葉集 巻三 202

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行くわれを
あらたえの ふじえのうらに すずきつる あまとかみらん たびゆくわれを

<私の想像を加えた歌の意味>
苦労を重ねて、ここまで海路を旅して来た。
都からは遠く離れた藤江の入江が見える。
だが、この旅の苦労と都を恋しく思う気持ちは、傍からはわからないだろう。
この私のことを、この地の人々は、すずきを釣る漁師と見ているかもしれない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

それとなく
郷里(くに)のことなど語り出でて
秋の夜に焼く餅のにほひかな

<私が考えた歌の意味>
故郷でなにかあったわけでもないのに、話は故郷のことになる。
秋の夜、餅を焼くにおいが茶の間を満たす。

<歌の感想>
 会話を家族でのものとしてとらえてみた。だが、友人同士でもいいであろう。強い望郷の念に身を置くこともあれば、この作のように穏やかに故郷を思い出すこともある作者を感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

このごろは
母も時時ふるさとのことを言ひ出づ
秋に入れるなり

<私の想像を加えた歌の意味>
母がこのごろ時々故郷のことを話題にする。
私と母は故郷のことを話すことがほとんどない。
母は、私の前で、故郷のあれこれを話すのをためらっているのだ。
そんな母が、我慢できなくなったように故郷のことを話題にする。
秋という季節が、母の望郷の想いを強くしているのだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

飴売のチャルメラ聴けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし

<私の想像を加えた歌の意味>
幼いころのすなおな心を今はすっかりなくしてしまった。
人を疑うことも人の悪意を見抜こうとすることもない時期が私にもあった。
久しぶりに子どもの頃に楽しみにしていた飴売りのチャルメラの音を聞いた。
そのとたん、幼いころの心を思い出した。
まるで、失くした大切なものをひろったように。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

<私が考えた歌の意味>
二日前に山の絵を見た。
その絵を見た時はそんなことは思わなかった。
今朝になって、急に恋しくなった、ふるさとの山を。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷の山を見たい。
今朝、急にそう思う。
故郷にいるときはなんのへんてつもない山として見ていたのに。
どうして急に故郷の山が見たくなったのだろう。
そうか、二日前に山の絵を見ていた。
もちろん、その絵は私の故郷の山を描いたものではない。
私にとって、山とは、すべて故郷の山が元になっているのだろう。

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