万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき

<私の想像を加えた歌の意味>
湖の汀を、たくましい男が牛を追ってやって来る。
秋の湖は人けもなく、静かだ。
牛飼いさん、歌を歌ってください。
だって、この景色は私にはさびしすぎるから。

<歌の感想>
 「歌あれな」は、私に声をかけてください、ととらえた方がふさわしいかもしれない。さびしいのは、「秋のみづうみ」の情景ではなく、作者の心であろう。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

夜の神の朝のり帰る羊とらへてちさき枕のしたにかくさむ

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたは、朝になったら夕べのことはなかったみたいな顔をする。
そして、さっさと帰って行く。
だから、私は空想する。
あなたを乗せて、帰って行くあの憎い羊をつかまえて、小さい枕の下に隠してしまおう。

万葉集 巻二 156 157 158 十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった時に、高市皇子尊が作られた歌三首

156
みもろの 三輪の神杉 已具耳哉矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き
みもろの みわのかんすぎ 已具耳哉矣自得見監乍共 いねぬよぞおおき

※「三・四句は解読不可能。諸説種々あるが、未だ従うに足るものはない。訓を付さないでおく。」新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店

157 
三輪山の 山辺まそ木綿 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき
みわやまの やまへまそゆう みじかゆう かくのみゆえに ながくとおもいき

158 
山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
やまぶきの たちよそいたる やましみず くみにいかめど みちのしらなく

<私の想像を加えた歌の意味>
157
普段は気にもしなかったのに、三輪山の神殿に供えられている布はこんなにも短かった。
この供え物の短さに気づかないのと同様に、皇女の命を短いものだとは考えてみなかった。
亡くなった今、皇女はいつまでも生きていると思っていたことが悔やまれる。

158
山吹が咲き誇っている山に清水を汲みにいきたい。
そこに行けば、亡くなった皇女に再び会えると思う。
だが、どんなにさがしてもその道を見つけることは決してできない。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

顔あかめ怒りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな


<私の想像を加えた歌の意味>
顔を真っ赤にして怒ったことが、次の日になると、それほどのことではなかったと思える。
怒りが中途半端に消えてしまった。
怒りが治まってしまう自分がなんとなくさびしい。

<歌の感想>
 啄木にとっては、怒りは大切にしたい感情なのだろう。純粋な怒りに身を任せることができなくなるさびしさが描かれている。怒りや悲しさを負のものととらえないところがおもしろい。激しく怒ることは、相当なエネルギーを必要とすることを改めて思う。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

庭石に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒りいとしも

<私の想像を加えた歌の意味>
怒りにまかせて時計を庭石に、はたと投げつけた。
昔の私は純粋な怒りを抑えることができなかった。
今の私はどうだろう。
怒りのあまり時計を庭石に投げつけるようなことはしない。
昔の私に戻りたい。

万葉集 巻二 155 山科の御陵から人々が退散する時に、額田王が作った歌一首

やすみしし わご大君の 恐きや 御陵仕ふる
やすみしし わごおおきみの かしこきや みはかつこうる

山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと
やましなの かがみのやまに よるはも よのことごと

昼はも 日のことごと 音のみを 泣きつつありてや
ひるはも ひのことごと ねのみを なきつつありてや

ももしきの 大宮人は 行き別れなむ
ももしきの おおみやびとは ゆきわかれなん

<私の想像を加えた歌の意味>
山科の鏡の山に大君の御陵が造営されています。
造営されたばかりの御陵では、大君に仕えた人々が昼夜を分かたずに悲しみ泣いています。
宮廷に仕えたその人々もいつまでも御陵にいるわけにはいきません。
今は集まって悲しみにくれている人々もそれぞれ散り散りになっていくのでしょう。

万葉集 巻二 154 石川夫人の歌一首

楽浪の 大山守は 誰がためか 山に標結ふ 君もあらなくに
ささなみの おおやまもりは たがためか やまにしめゆう きみもあらなくに

<私の想像を加えた歌の意味>
大君がお元気だったころは、大山の番人は時期が来ると大君のために山にしめ縄を張っていました。
その時期になったので、山の番人は山にしめ縄を張っています。
大君が亡くなられた今となっては、誰のためにしめ縄を張っているのでしょうか。
むなしい気がいたします。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

雲ぞ青く来し夏姫(なつひめ)が朝の黒髪梳くごとし水に流れる青空の雲

<私が考えた歌の意味>
青空に浮かぶ雲が水に映って流れていく。
まるで夏の精霊が朝に黒髪を梳いているよう。
夏の白い雲が青々と空を水を流れていく。

<歌の感想>
 晶子の歌を何首か読んでいないと、この比喩表現は分かりづらい。でも、「夏姫」という表現などに慣れると、一般的な比喩表現とは違うものを感じる。「黒髪」と「青空の雲」は、普通に考えると矛盾するのだが、そういうことを超越した感覚表現として成立している。初夏の爽やかさや雄大な風景というよりは、艶やかで濃い色合いの夏を感じる。
 晶子にかかると、夏の青空も艶めいたものになるから不思議だ。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

とき髪に室(むろ)むつまじき百合のかをり消えをあやぶむ夜の淡紅色(ときいろ)よ

<私の想像を加えた歌の意味>
今宵は、色で表せば淡紅色です。
寝室で解いた私の髪に百合の香りが移ります。
あなととむつまじく過ごした夜の百合の香りが消えてしまいそうです。
愛し合っているのに、その幸せが消えそうな気もする今宵は、やはり淡紅色を感じます。

万葉集 巻二 153 大后(たいこう)の御歌一首

いさなとり 近江の海を 沖離けて 漕ぎ来る船
いさなとり おうみのうみを おきさけて こぎくるふね

辺つきて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくなはねそ
へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ

辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ
へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもうとりたつ 

<私の想像を加えた歌の意味>
近江の海には、沖を漕ぐ船、岸辺を漕ぐ船、さまざまな船が見える。
どの船も櫂で水面を強くはねないでください。
夫の君が大好きだった水鳥が驚いて飛び立ってしまわないように。

<歌の感想>
 天皇の崩御に際しての長歌と短歌の中の一首という位置づけの中の作品である。そのような作品群の中の一首として味わうと、近江の海の風景から生前の天皇の人柄を想起している作者の様子が浮かんで来る。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

放たれし女のごときかなしみを
よわき男も
この日今知る

<私の想像を加えた歌の意味>
稼ぐ手立ても助けてくれる人もいない女が家から出された。
そんな女のかなしみを、よわい男も感じている。
この日の今、私は、心細く頼りないかなしみを突きつけられている。

<歌の感想>
 今の時代では、当てはまらない面もある比喩表現だ。この作品の中心ではないが、当時の社会で、女性が独りで生きていくことの困難さを感じる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

盗むてふことさへ悪(あ)しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家もなし

<私の想像を加えた歌の意味>
人の物を盗むことはどんな場合も悪いことだと信じてきた。
それなのに、盗みをはたらくことさえも悪いことだと自信をもって思えなくなった。
そんな荒んだ心がかなしい。
そんな私が隠れることのできる隠れ家もない。

万葉集 巻二 151 152 天皇を殯宮にお移しした時の歌二首

151 額田王
かからむと かねて知りせば 大御舟 泊てし泊りに 標結はましを
かからんと かねてしりせば おおみふね はてしとまりに しめゆわましを

<私の想像を加えた歌の意味>
大君がこのように早くお亡くなりになるなんて考えてもみませんでした。
このことが分かっていましたなら、大君がお好きだった船旅の港ごとにしめ縄を張っておきましたものを。
災いや病を退散させるというしめ縄を。

152 舎人吉年(とねりよしとし)
やすみしし わご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の唐崎
やすみしし わごおおきみの おおみふね まちかこうらん しがのからさき

<私の想像を加えた歌の意味>
お元気だった時には、たびたびお船で志賀に行幸された大君でした。
お亡くなりになられた今でも、志賀の唐崎は大君のお船を待っていることでしょう。

万葉集 巻二 150 天皇が崩御された時に、婦人が作った歌一首 姓氏は分からない

うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君
うつせみし かみにあえねば はなれいて あさなげくきみ

離り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて
さかりいて あがこうるきみ たまならば てにまきもちて

衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君そ昨夜 
きぬならば ぬくときもなく あがこうる きみそきぞのよ

夢に見えつる
ゆめにみえつる

<私の想像を加えた歌の意味>
亡くなった大君にお会いすることはできません。
この世では、もう二度とお会いすることができないと分かっていますが、いつもいつも大君を恋い慕っています。
昨夜は、大君が夢に出てこられました。

<歌の感想>
 現代語訳を参照すると、天皇の死をいかに表現しようかという表現方法に重きをおいてこの長歌を作っているように感じる。

「人の身は 神に逆らえないものだから 離れていて 朝からわたしが慕い嘆く大君(おおきみ) 残されて わたしが恋い慕う大君 玉だったら 手に巻きつけて持ち 衣だったら 脱ぐ時もないほどに いつもいつもわたしが恋慕う 大君がゆうべ 夢に見え給うた」日本古典文学全集 萬葉集 小学館

 現代の感覚では、この表現の仕方が亡き人を慕う気持ちをよく表わしているとは感じられない。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

𠮟られて
わつと泣き出す子供心
その心にもなりてみたきかな

<私の想像を加えた歌の意味>
𠮟られて子供がワッと泣き出した。
あの子は叱られたことが、かなしくてただただ泣いている。
泣く子の純粋な心になってみたい。
私の心は、かなしいことがあっても泣くこともできない。

<歌の感想>
 それほど深刻な内容を詠んでいるようではない。それなのに、作者は追い詰められている気がする。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

人といふ人のこころに
一人(ひとり)づつ囚人(しゅうじん)がゐて
うめくかなしさ

<私の想像を加えた歌の意味>
この世に生きている人という人の心には、囚人がいる。
一人ずつの心に、一人ずつの囚人を抱えている。
心のうちの囚人が、うめいているのを、私は感じる。
囚人のうめきが、かなしくこの社会を覆っている。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ

<私の想像を加えた歌の意味>
なんでもいいからとんでもなく不思議なことをしてみたい。
世間の人々がアッと驚くような不思議をやり遂げて、パッとこの世から消え去る。
何をやっても思うようにいかない私のやりたいことが、それだ。

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