万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。 私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

<私が考えた歌の意味>
友達がみんな、私よりもえらく見える日がある。
そんな日は花を買って家に帰る。
その花を妻と眺め睦まじく過ごす。

<私の想像を加えた歌の意味>
なぜだろうか。
友人が皆、私よりも優れていると思わされる日があった。
普段は、そういうことはしないのに、花を買って帰った。
妻と花を眺め、静かに過ごした。
私は、友達の誰よりも才能も能力ないと感じる日に。

<歌の感想>
 この一首だけを読むと、世間の競争に疲れた作者が家庭に憩いを求めて、そこに幸福を感じているととらえることができる。
 歌集「一握の砂」の中の一作品として見ると、やや違った感想が湧いてくる。啄木があらゆる面で、人よりも自分がえらくないと思い続けるだろうか。啄木が、花を買って来て、妻と仲良く暮らすことに満足し続けるであろうか。そんなことはないと思う。
 この短歌が表現している気持ちになることもある。この短歌に描かれている夫婦の時間を過ごすこともある。しかし、それはむしろ稀なことだという作者の思いを感じる。
 だからこそ、この一首が、嵐の後の晴れ間のような特別な穏やかさを感じさせるのだと思う。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日(けふ)もさまよひて来ぬ

<私が考えた歌の意味>
名前も知らない、行ったこともない街を、今日もさまよって来た。
今までの自分とは違う新しい心を持ちたいと願って。

<歌の感想>
 啄木の短歌として、優れた作とはいえない。しかし、一風変わった作であると思う。金や仕事の苦労などから抜け出したいという感覚とは違うものを感じる。
 その感じは、この作を含めての四首に共通している。

人間の使はぬ言葉
ひょつとして
われのみ知れるごくと思ふ日

いつも睨(にら)むランプに飽きて
三日(みか)ばかり
蠟燭の火にしたしめるかな


うすみどり
飲めば身体(からだ)が水のごとき透きとほるてふ
薬はなきか 

 
周囲への苛立ちや怒りが感じられない。優越感と劣等感の間を行き来する様子も見えない。名も知らぬ街をさまよってきても、そこに悲しみはない。なにか、透明な感覚、沈静な心情が描かれているのを感じる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

人間の使はぬ言葉
ひょつとして
われのみ知れるごくと思ふ日

<私が考えた歌の意味>
この世には、人間の使わない言葉がある。
動植物や、月や雲、天地の万物が語り合うような言葉が。
ある日ふっと思い付いた。
ひょっとすると、私は人間だが私だけはその言葉を知っているのかもしれないと。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

いつも睨(にら)むランプに飽きて
三日(みか)ばかり
蠟燭の火にしたしめるかな

<私が考えた歌の意味>
いつも見つめているランプの明るさに飽きてきた。
三日ばかり違う明かりを灯してみた。
ランプの明るさはないが、久しぶりに使う蠟燭の明るさが気持ちにしっくりとくる。

万葉集 巻二 114 115 116

114 但馬皇女(たじまのひめみこ)が高市皇子(たけちのみこ)の宮にいた時に、穂積皇子(ほずみのみこ)を思ってお作りになった歌一首
秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも
あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも

115 勅命によって穂積皇子を近江の志賀の山寺に遣わした時に、但馬皇女のお作りになった歌一首
後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へわが背
おくれいて こいつつあらずは おいしかん みちのくまみに しめゆえわがせ

116 但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、その事が露顕して、お作りになった歌一首
人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
ひとことを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかわわたる


<私の想像を加えた歌の意味>
114
実った穂が一方にだけなびいています。
ぴったりとあなたに寄り添っていたい。
実った穂のように。
たとえ、世間がどのように私のことを悪く言おうとも。

115
後に残ってあなたの帰りを待ち焦がれているなんて、我慢できません。
それくらいなら、あなたの後を追いかけて行きましょう。
通った跡に印をつけておいてください、あなた。
私が追いつけるように。

116
うわさを気にしてなぞいませんが、でもあなたと私のことを言ううわさが絶えません。
これ以上、うわさになるのは困ります。
なるべく人目につかないように、あなたの所から帰る時は朝早くに帰ります。


 恋する思いが感じられる。そして、それは強く行動的だ。
  115と116は、歌の訳としては諸説あり、どれを採用すべきかは迷う。しかし、二人の恋を非難する世間があるが、それに負けないで恋を貫こうとする意思は、どのように訳そうと伝わってくる。
 この三首それぞれは、特に優れているとは感じない。しかし、三首をまとめて味わうと作者の人物像が浮かんでくる。周囲のうわさは知っているが、自己の感情に素直に生きようとする思いが時代を超えて伝わってくる。

万葉集 巻二 103 104 

103 天皇が藤原夫人に与えられた御歌一首

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくはのち
わがさとに おおゆきふれり おおはらの ふりにしさとに ふらまくはのち

104 藤原夫人が答え奉った歌一首 

わが岡の 龗に言ひて 降らしめし 雪の嶊けし そこに散りなむ
わがおかの おかみにいいて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりなん

<私の想像を加えた歌の意味>
103
こちらでは、大雪が降りましたよ。
辺り一面美しい雪景色で、あなたにも見せたいものです。
あなたが里帰りしている大原の古都では雪はまだまだ降らないでしょうから。

104
何をおっしゃっているのですか。
私は、大原の岡の神に言って、こちらでもう雪を降らせましたよ。
そちらに降ったと自慢している雪こそ、大原に降った雪の残り物でしょうよ。


 短歌でのやり取りを楽しんでいる双方の気持ちが伝わってくる。
 103の方は、初雪を夫人と共に眺めたかったという気持ちがあり、104の方は、あなたと一緒に大原の雪景色を眺めたかったという気持ちがあるのだろう。それをそのまま表さずに、ひとひねりして贈答している。
 自慢とやせ我慢と受け取ることもできるのだろうが、それよりは表現上の技巧のおもしろさとユーモアのセンスを味わうべきだと思う。
 題材が初雪というのにも、暮らしの美意識と豊かさを感じる。

140 柿本朝臣人麻呂の妻、依羅娘子(よさみのおとめ)が人麻呂と別れた時の歌一首
 
な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ
なおもいと きみはいえども あわんとき いつとしりてか あがこいざらん

<私が考えた歌の意味>
思うなとあなたは言います。
次にあなたと逢えるのはいつと分からないので、ますます恋しいのです。

<私の想像を加えた歌の意味>
いつまでも私のことを恋しく思うな、とあなたは言います。
あなたと別れて、次に逢える日がいつなのか分かりません。
もう逢えないかもしれないと思うからこそ、恋しいのです。

<歌の感想>
 解説によると、この作者は、石見の国の妻のことではないとある。だが、状況としては似通っているのではないかと感じる。ただし、131~139の長歌短歌に表現されているような別れてきた相手を思う感情は感じられない。

万葉集 巻二 138 139 140 或る本の歌一首と短歌

138

石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つのうらをなみ うらなしと ひとこそみらめ

潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも

いさなとり 海辺をさして 柔田津の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻
いさなとり うみへをさして にきたつの ありそのうえに かあおくおうる たまもおきつも

明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ來寄れ
あけくれば かぜこそきよれ ゆうされば かぜこそきよれ

波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす なびき我が寝し しきたへの 妹が手本を
なみのむた かよりかくよる たまもなす なびきわがねし しきたえの いもがたもとを

露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへりみすれど 
つゆしもの おきてしくれば このみちの やそくまごとに よろづたび かえりみすれど

いや遠に 里離りぬ来ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし わが妻の児が 
いやとおに さとさかりきぬ いやたかに やまもこえきぬ はしきやし わがつまのこが

夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む なびけこの山
なつくさの おもいしなえて なげくらん つののさとみん なびけこのやま

139
石見の海 打歌の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのうみ うつたのやまの このまより わがふるそでを いもみつらんか

<私が考えた歌の意味>

138
石見の海には船を泊めるよい入り江がないと見られている。
石見の海にはよいひがたがないと見られている。
よい入り江がなくとも、よいひがたがなくともよいではないか。
石見の海では、柔田津の荒磯の辺りに生える真っ青な海藻が海辺に打ち寄せる。
朝には波が立って海藻を海岸に寄せるし、夕には風が海藻を海岸に寄せる。
共に寝た妻の腕は、波になびく海藻のように私にぴったりと寄り添っていた。
その愛しい妻を置いて来たので、この山道の曲がり角ごとに振り返って見る。
振り返るたびに、妻の里はいよいよ遠くなり、ますます高くなる山を越えて来た。
我が妻も、私のことを恋しく思い、嘆いているであろう。
その妻の里を見たい、平らになれ、この山よ。

139
石見の海の打歌の山の木の間から、恋しい妻に届けと袖を振った。
離れはしたが、恋しい思いで振った私の袖を、妻は見たであろうか。

<歌の感想>
 異伝というのか、一部分だけが違う歌に注目したことがなかった。しかし、こういう一部分だけが違う歌もよく読むとおもしろい。
 138は、132の異伝とされるが、132よりも分かりやすくなっている気がする。分かりやすくはなっているが、説明的でもある。どちらがよいとは簡単には言い切れない。この語を変えるだけで作品としてよくなるなどという言い方をよく聞くが、そんなものではないと思う。部分の違いが作品全体に影響するので、一部分が異なれば違う作品として味わうべきだと思う。
 138は、長歌としてよく整理された表現になっていると感じる。整理されているだけに、後半の残してきた妻との別れを惜しむ気持ちがそれほど強く感じられない。132の方が、妻のことを思う気持ちが未練も交えてよく伝わってくる。

※ 以前の記事 を改めた。

万葉集 巻二 135 136 137 柿本朝臣人麻呂が石見の国から妻と別れて上京して来た時の歌二首と短歌(131~137)
  
135

つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる
つのさわう いわみのうみの ことさえく からのさきなる

いくりにそ 深海松生ふる 荒磯にそ 玉藻は生ふる
いくりにそ ふかみるおうる ありそにそ たまもはおうる

玉藻なす なびき寝し児を 深海松の 深めて思へど
たまもなす なびきねしこを ふかみるの ふかめておもえど

さ寝し夜は いくだもあらず 延ふつたの 別れし来れば
さねしよは いくだもあらず はうつたの わかれしくれば

肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど
きもむかう こころをいたみ おもいつつ かえりみすれど

大船の 渡りの山の もみち葉の 散りのまがひに
おおぶねの わたりのやまの もみちばの ちりのまがいに

妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の山の

いもがそで さやにもみえず つまごもる やがみのやまの

雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 
くもまより わたらうつきの おしけども わたらいくれば

天伝ふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる我も 
あまづたう いりひさしぬれ ますらおと おもえるあれも

しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ
しきたえの ころものそでは とおりてぬれぬ


136 反歌二首(135 136)
青駒が 足掻きを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける
あおこまが あがきをはやみ くもいにそ いもがあたりを すぎてきにける


137
秋山に 落つるもみち葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む
あきやまに おつるもみちば しましくは なちりまがいそ いもがあたりみん


<私が考えた歌の意味>

135
石見の海に辛の崎がある。
辛の崎の海底深く美しく海藻が生える。
辛の崎の磯に豊かに海藻が生える。
海藻が波になびくように、離れることなく寄り添い妻と夜を過ごした。
妻と過ごした日々が長く続くことはなく、別れてこなければならなかった。
妻を残して石見を離れるのはあまりにも辛い。
何度も何度も残してきた妻を振り返って見る。
大船の渡りの山の辺りまで来ると、黄葉が散り乱れている。
妻が袖を振っている姿もはっきりとは見えなくなってくる。
月が雲に隠れてしまうように、妻の姿が見えなくなる。
なんとも名残惜しい。
妻の姿が見えなくなったころには、夕日がさしてきた。
涙など見せない男子と自負していた私だが、悲しさをこらえることができない。
衣の袖が濡れてしまう。

136 
乗る馬の歩みはあまりにも速い。
妻の家から遠く離れた所まで来てしまった。

137
秋山に散る黄葉、しばらくは散り落ちないでくれ。
妻の家の辺りを、はっきりと見ていたいから。


<私の想像を加えた歌の意味>

135
石見で情愛の深い妻を得ました。
深い海の底で、静かに藻がなびき合うように。
磯で、藻が戯れ合うように。
妻と仲睦まじく過ごしました。
もっともっと一緒にいたかったのに、別れてくるしかありません。
名残惜しくて、何度も妻を振り返ります。
山の黄葉が散ってくると、この黄葉が散らなければ、もっと妻がよく見えたのにと思います。
妻の家の辺りもすっかり見えなくなるころには、夕日がさしてきます。
任地の妻との別れが辛くて、涙を流すなどとは思っていませんでした。
そんな私ですが、気づくと、着物の袖が濡れていました。

136
どんどん妻との距離が離れてしまう。
馬の足が速く感じられてしかたがない。
このままの速さでは、たちまち妻が遠くなる。

137
妻と離れ行く山道に黄葉が散る。
散る黄葉が、妻の家の辺りを見えづらくする。
黄葉よ、散らないでくれ。
もう少しの間だけでも、妻の家の辺りを見ていたい。

※ 以前の記事  を改めた。

万葉集 巻二 131 132 133 柿本朝臣人麻呂が石見の国から妻と別れて上京して来た時の歌二首と短歌(131~137)

131
石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ
いわみのうみ つののうらみを うらなしと ひとこそみらめ

潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 
かたなしと ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも よしえやし かたはなくとも

いさなとり 海辺をさして にきたづの 荒磯の上に
いさなとり うみへをさして にきたずの ありそのうえに

か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ來寄れ
かあおくおうる たまもおきつも あさはうる かぜこそよせめ ゆうはうる なみこそきよれ

波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし來れば
なみのむた かよりかくよる たまもなす よりねしいもを つゆしもの おきてしくれば

この道の 八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ
このみちの やそくまごとに よろずたび かえりみすれど いやとおに さとはさかりぬ

いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山
いやたかに やまもこえきぬ なつくさの おもいしなえて しのうらん いもがかどみん なびけこのやま 


132
石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
いわみのや たかつのやまの このまより あがふるそでを いもみつらんか

133
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思う 別れ来ぬれば
ささのはは みやまもさやに さやげども あれはいもおもう わかれきぬれば

134 ある本の反歌に言う
石見なる 高角山の 木の間ゆも 我が袖振るを 妹見けむかも
いわみなる たかつのやまの このまゆも わがそでふるを いもみけんかも

<私が考えた歌の意味>

131
石見の国には、波穏やかな湾も入江もないと、人は言います。
湾はなくても、よいではありませんか。
入江はなくても、よいではありませんか。
石見の海では沖にも磯にも海藻が豊かです。
朝の風が、その海藻を吹き寄せるでしょう。
夕の風が、波とともにその海藻を吹き寄せるでしょう。
私と妻は、海藻が絡み合い寄り添い合うようにして毎夜を過ごしました。
寄り添って寝た妻を置いてきたので、山道の曲がり角ごとに何度も振り返ってみました。
いくら振り返ってみても、妻のいる里は遠ざかり、いよいよ高くなる山を越えて来ました。
妻は、私のことを恋い慕って、気持ちも沈んでいるでしょう。
妻の家の門口だけでも、見たい。
妻の家の方向を塞いでいる山よ、どちらかに寄ってくれ。


132
石見の高角山の木の間から、妻へ向けて袖を振る。
私が袖を振っているのを、妻は見ているであろうか。

133
笹の葉が山全体で風にさやいでいる。
笹の葉のさやぎにも心を奪われず、私は妻のことを思っている。
恋しい妻を残してきているので。

134
私が振った袖を、残してきた妻は見ていただろうか。
高角山の木々の間から妻へ向けて振った私の袖を。


<私の想像を加えた歌の意味>

131
石見の海は、荒々しい海だと言う人が多いようです。
石見の海には、穏やかな入江はありません。
穏やかな入江はないのですが、海は豊かで美しい海藻が採れます。
朝の風、夕の風が、豊かな海藻を吹き寄せます。
石見で、私は情の細かい妻を得て、仲睦まじく暮らしていました。
仲良く暮らした妻を、置いて来たので、都までの道すがら何度も石見を振り返りました。
幾度も振り返るのですが、その度に妻のいる里は遠ざかり、ますます高くなる山道を越えて進むしかありません。
私が妻を振り返るのと同じように、妻は私のことを恋い慕って、私の旅の方向を見つめているでしょう。
妻の家の方向を塞いでいる山よ、もっと低くなってくれ。
妻は、私のことが恋しくて、気持ちも萎えているにちがいない。
せめて、妻の家の門口だけでも、見たい。
山よ、低くなれ。


132
木々の生い茂る高角山で、残してきた妻のことを恋しく思い出しています。
妻の所からも見えている高角山で、私が恋しく思い出していることを、妻は察するでしょうか。
妻は、私の思いを分かっているに違いありません。
遠く離れていても、私と妻の間を隔てることはできません。

133
サヤサヤサヤ、山中に笹の葉のさやぎが聞こえる。
サヤサヤ、さやぐ音をいくら聞いても、思うのは妻のことだけ。
あんなに仲睦まじく寝た妻を、残してきてしまった。


134
高角山には、木々が生い茂り、妻のいる里を遮っている。
妻との間は遮られていても、私の思いを妻に届けようと袖を振った。
妻は、私の思いを受け止めているにちがいない。

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