万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

万葉集 巻一 14

香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原
かぐやまと みみなしやまと あいしとき たちてみにこし いなみくにはら

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山と耳梨山が、互いに畝傍山を妻にしたいと争った時に、この争いを止めさせるために大神が出てきてくださいました。
その大神が出てこられた所が、ここ印南国原です。
私たちの争いにも、神様が出ておいでになり、正しい決着をつけてほしいものです。

<歌の感想>
 長歌13と反歌14で、作者は自分のスキャンダルを暴露している。ところが、「これは例の争いのことですね」と周囲から言われれば、「いいえ、神代の話を歌にしたまでですよ」と澄ましている。
 万葉集の雑歌には、別のことにかこつけて、自分の真意を披露する要素がある。もっと言うと、純粋に個人の感情や行為を歌で表現するということはなかったように感じる。

万葉集 巻一 13

香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき
かぐやまは うねびをおしと みみなしと あいあらそいき

神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ
かみよより かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ

うつせみも 妻を 争ふらしき
うつせみも つまを あらそうらしき

<私の想像を加えた歌の意味>
香具山は前々からうねびを妻にしようとしていた。
そこへ自分こそが、うねびを妻にするのだと、みみなしが出しゃばってきた。
香具山は、うねびをやすやすと奪われたくないので、みみなしと争った。
神の時代からこういう争いがあったと言い伝えられている。
昔から、こういう話があるのだから、今の世でも一人の女性のことで二人の男性の争いがあっても不思議ではない。

<歌の感想>
 三山の性別についても、様々な説があり、どれをとるべきかの判断がつかない。根拠はないが、香具山を男性で作者、畝傍を女性、耳梨を横恋慕する男性ととらえて、歌の意味を考えた。
 妻と決めていた女性を奪われそうになっている作者を想像した。だから、この長歌には、もう決まっている二人の仲を裂こうとする嫌な奴がいるのです、という作者の嘆きもありそうだ。
※本文は、新日本古典文学大系 岩波書店によった。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

森の奥より銃声聞こゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

<私が考えた歌の意味>
遠く森の奥から銃声がした。
なんとも悲しむべき音だ。
あれは自殺の銃声か。
あの悲しい音に今の私は心ひかれる。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

わが髭(ひげ)の
下向く癖がいきどほろし
このごろ憎き男(をとこ)に似たれば

<私の想像を加えた歌の意味>
ひげを整えようと鏡を見る。
どうして俺のひげは下を向いてしまうんだろう。
どうそろえても、ひねりあげてもだらしなく下を向いてしまう。
しまいにこのひげに腹が立ってくる。
最近憎らしくてしようがないあの男のひげに似ているんだもの。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

<私の想像を加えた歌の意味>
気持ちのいい天気だなあ。
芝生に寝転んで何も考えずにいられる。
晴れた空に雲が浮かんでいる。
こんな穏やかな気持ちになるなんていつ以来だろう。
ウン?なんか冷たいモノが額に。
フンだ。鳥のフンだ。
あの鳥だな。
人にフンを引っかけておいて、悠々と空を遊びまわっている。
いつもなら腹が立つのに。今日は腹も立たないなあ。
こんな日もあるんだなあ。
もう少し寝転んでいこう。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗へば心戯(おどけ)たくなれり

<私が考えた歌の意味>
なみだは不思議だ。
泣いて泣いて、なみだなみだの時を過ごす。
そうするうちに、なみだが心を洗うので、おどけたい気持ちになってきた。

<歌の感想>
 この短歌は、『一握の砂』の25番目の作だ。25首の中で、作者の行為としての「泣く」「なみだ」の語があるのが、6首だ。
 『一握の砂』は、なみだの歌集だ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

鏡とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時

<私の想像を加えた歌の意味>
鏡に向かっていろいろな顔をしてみる。
泣き顔、ほほ笑む顔、笑い顔、怒った顔、まじめな顔、ゆがめた顔、そしてまた泣き顔。
いつもいつも悲しい顔をしている。
心の内はいつもいつも泣き顔だと思うので。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

愛犬の耳斬(き)りてみぬ
あはれこれも
物に倦(う)みたる心にかあらむ

<私の想像を加えた歌の意味>
手元にあった刃物で愛犬の耳を斬ってみた。
ほんの少しだけれど。
犬は驚き、声を上げ身をすくめたが、向かってきはしない。
俺は、何をしているんだろう。
こんなことをするのも、全てのことが嫌になった心のせいか。
情けない。
愛犬が、今は澄んだ目で私を見上げる。

<歌の感想>
 犬を飼っている人にはこれと似た経験があるのではないか。耳を切ったりする人はいないが、飼い主の勝手で強く叱ったり、何かにむしゃくしゃしてリードを強引に引っ張ったり、こういうことはあると思う。
 私には、そんな経験が何度かあった。そんな時、犬は怯えたり、悲しげにするが、すぐにいつもと変わらぬ目で飼い主を見上げてくる。
 犬が悪さをしたのでなく、飼い主の心が荒んでいたのだ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心

<私の想像を加えた歌の意味>
浅草は夜も賑わっている。
人は多く、しかも皆楽しげだ。
仲のよい男女。酔って大声の男同士。
そんな群衆に、私もまぎれ込む。
だが、そんな群衆の中で私は独りをつよく感じる。
独りのまま、賑わう人々から抜け出す。
ますます心はさびしい。

<歌の感想>
 群衆の中の孤独は、今や少々手垢の付いた感じ方になってしまった。そういう多くの共感を得る感覚の原型なのかもしれない。
 今は、人が肩を触れ合うような町の賑わいそのものが少なくなっている。その町に行けば、いつでも多くの人々で賑わっている場所はもうきわめて少ない。人が集まるのは、なんらかのイベントがなければならないのだろう。
 イベントの参加者の中では独りでいても、孤独や寂しさを味わう気分にはなれない。

万葉集 巻一 12

わが欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ
わがほりし のしまはみせつ そこふかき あごねのうらの たまそひろわぬ


<私の想像を加えた歌の意味>
以前から見たいと思っていた野島は見せてもらいました。
でも、せっかくここまで来たのですから、阿胡根の浦の海底深くにある真珠を手に入れたいものです。
誰かに命じて、私のために海底の真珠を拾って来させなさい。

<歌の感想>
 10~12の作者は、旅先にあっても身の回りの世話をする人々がいて、周囲へは指図をするトップの地位にいる人物であろう。
 実際に権力を持っているし、歌を作るのも得意な女性を感じる。こういう人には、周囲の男性もタジタジであったろう。
 地名を二つも詠み込み、その上で自分が思っていることを表現できる力はすごい。こういう歌を示されては、夫であれ、周囲の人であれ、慌てて真珠を手に入れる方法を探ったはずだ。
 あるいは、そんなことが容易にはできないと知っていて、沈黙して作者と目を合わせないようにしているかもしれない。

万葉集 巻一 11


わが背子は 仮廬作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね
わがせこは かりいおつくらす かやなくは こまつがもとの くさをからさね

<私の想像を加えた歌の意味>
夫は旅の宿りのための仮小屋を配下の者たちに作らせています。
小屋作りはテキパキとは進んでいません。
小屋の屋根を葺くカヤがないなら、あの松の根元の草を使いなさいよ。
私は早く小屋で休みたいので。

<歌の感想>
 優しくアドバイスをしているというよりは、指示あるいは命令をしているように想像できる。しかし、下の者たちに直接命令しているのとは違うし、もっとこうすればいいのにと愚痴だけを言っているのとも少し違う。
 作者は、仮廬作りなどに直接命令を下すようなことはしないのであろう。それでいながら、その様子に黙っているわけにもいかない作者を感じる。

万葉集 巻一 10

君が代も わが代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな
きみがよも わがよもしるや いわしろの おかのくさねを いざむすびてな

<私が考えた歌の意味>
あなたの命もわたしの命も守ってくれる神のいるという岩代の丘の草根を結んでお祈りしましょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
紀の温泉への旅で、よくやく岩代にたどり着きました。
岩代は、あなたの健康もわたしの健康も守ってくださる神様のおいでなる所です。
さあ、ここで旅の安全を祈り、紀の温泉へと向かいましょう。

 万葉集巻一 8 の左注を正しいとするならば、8の作者は額田王ではなくなる。
 また、今までの注釈では、舟遊びとしたり、軍船の出航としたり、様々だ。
 原文のことばがきや左注を歴史上のできごとと照らし合わせて、正しく読もうとするならば、できる限り多くの資料に当たるべきだ。
 私の場合は、そういう読み方を目指してはいない。もちろん、読みを深めるための資料があれば、それは大いに参考にする。だが、作品のイメージを膨らませるにふさわしい資料だけを参考にするという気ままなものでしかない。
 
 この作品について今までの解釈のいくつかも読んだが、自分の感覚として次のように受け取った。
 8の作は、額田王のものであろう。
 船出は、作者も乗り込む船で、夜間の海路の航行と想像した。根拠はない。そういう背景と受け取ると、作品の情景と作者の心情を思い描きやすいというだけだ。

万葉集 巻一 8 額田王

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
にきたつに ふなのりせんと つきまてば しおもかないぬ いまはこぎいでな


<私が考えた歌の意味>
熟田津で船の出航を待っていると、月も出て船出の条件がそろった。
潮の具合もよく、今こそ船を出しましょう。

<私の想像を加えた歌の意味>
夜の船旅は月明かりがなくてはと船頭が言うので、月の出を待っていました。
おりよく月がこうこうと海面を照らすようになりました。
波も穏やかで、船旅にふさわしい夜です。
さあ、漕ぎだしてください。

<歌の感想>
 作者がおかれている状況、その時の天候景色、作者の心情、そのすべてを思い描くことができる。
 「月待てば潮もかなひぬ」で変化していく景色と周囲の人々の動きまで表現できているのは、やはり名作だと感じる。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

臙脂色(えんじいろ)は誰にかたらむ血のゆらぎ春の思ひのさかりの命

<私が考えた歌の意味>
血が揺らぎ、青春の思いが高まり、命が燃え立ちます。
このえんじ色に塗りこめられた私のことを誰に語りましょうか。

<私の想像を加えた歌の意味>
私の内なるものを誰に打ち明けようか。
私の体の内で血が揺らぐ。
私の心は恋の思いでいっぱい。
私の今こそ、若さの盛り。
私の内なる色は、えんじ色。

<歌の感想>
 色のイメージからも若々しい、初々しいというのとは少し違う。世間のこともそれなりに知り、恋の経験もある作者を思い浮かべる。
 意味のとりづらい作ではあるが、作者が自分自身を持て余すような心情が感じられ、晶子の特徴がよく出ていると感じた。俵万智著『チョコレート語訳みだれ髪』では、(略)受け止められる男おらぬか としているが、なるほどと思った。

万葉集 巻一 7 額田王 未だ詳らかならず

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ
あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりいおしおもおゆ

<私が考えた歌の意味>
秋の野の草を刈って屋根を葺き、仮の宮を建て一夜を過ごしました。
あの宇治の仮の宮のことが思い出されます。

<私の想像を加えた歌の意味>
季節は秋、泊まった地は宇治でした。
天皇の仮のお住まいといっても何もない所なので、野原の草をみんなで刈って、仮の宮の屋根を葺きました。
草刈りから屋根葺きまで大急ぎで作ったあの宇治の仮の宮に泊まったことは、特別な思い出です。

<歌の感想>
 五七、五七のそれぞれがなんともいえない心地よい調子だ。結句の落ち着き具合もよい。
 一句は、「の」が三音。二句は、か行が三音。三句四句に、それぞれ濁音。五句は、あ行が三音。こういう音の組み合わせが調子のよさにつながっているのかもしれない。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

紫に もみうらにほふ みだれ筐を かくしわづらふ 宵の春の神

<私が考えた歌の意味>
衣装箱から着物の裏地の紫色が覗いています。
今宵の春の神は、脱いだ着物の裏地を隠そうともしません。

<私の想像を加えた歌の意味>
衣装箱の片隅から紫色が覗いています。
あれは、私が脱いだ着物の裏地です。
隠そうたって、隠せるものではありません。
今宵、あなたのために私が着物を脱いだことを。

<歌の感想> 
 想像を加えると、現実的になるが、実際の行動を描いているのであろうか。どんな状況で何をしているかが描かれているとは思えない。
 作者の眼に映っているのは、ほの暗い中の裏地の紫であろう。そこから虚と実がないまぜになった作者の世界ができあがっていると感じる。

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