万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

万葉集 巻二 209 柿本人麻呂 (再考)

もみち葉の 散り行くなへに 玉梓の 使ひを見れば 逢ひし日思ほゆ
もみちばの ちりゆくなえに たまづさの つかいをみれば あいしひおもおゆ

<私が考えた歌の意味>
黄葉の散る時期に妻の死を知らせる使いの人が来た。
妻と何度も逢ったのは黄葉の散る今頃だった。
悲しい知らせなのに、思い出すのは妻と逢って過ごした日のことだ。

<歌の感想>
 「使ひ」使いの人をどう見るかで、意味が変わってくる。
 以前の記事では、妻の所に便りを届けさせた使いの人と考えてみたが、そうすると、回りくどい感じがする。
 妻の死を知らせる使いの人と、妻の所へ便りを届けさせた使いの人を同一の人とした解釈もある。
 どの解釈がよいか、わからない。そこで、使いの人を、長歌207の妻の死を知らせた使いの人ととらえた。死を知らせる使いの人を見て、生前の逢った日々を思い出すのは無理があるような気もする。
 だが、この短歌では、黄葉の散るころという時期こそが大切だと思う。妻が亡くなったのも、妻と楽しい日々を送ったのも、黄葉の散っていくころだった。それを、つなぐのが「使ひ」だと感じた。

万葉集 巻二 208 柿本人麻呂 (再考)

秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも
あきやまの もみぢをしげみ まどいぬる いもをもとめん やまぢしらずも

<私の想像を加えた歌の意味>
妻と永遠に会えないとは思えない。
妻はもみじの山に迷い込んだだけなのだ。
もみじがあまりに繁っているので、道に迷い戻って来れないのだ。
だが、その妻を探すための道を、私はどうしても見つけられない。

<歌の感想>
 亡き人にはどんなに望んでも会えない。
 亡くなったとは思いたくない。だが、亡くなったことは現実だ。
 亡き人ではあるが、会えないとは思えないし、思いたくない。
 そんな葛藤が伝わってくる。

万葉集 巻一 22

河上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常娘子にて
かわのへの ゆついわむらに くさむさず つねにもがもな とこおとめにて


<私が考えた歌の意味>
いつまでも乙女の若さを持ち続けられますように。
この川のほとりの重なる岩は、草が生えることなくいつまでも変わることがありません。
神の宿るこの岩のように、あなた様もきっといつまでも老いることなく美しくいられますように。

<歌の感想>
 作者十市皇女が不老を願っているという解釈と、他の人が十市皇女(とおちのひめみこ)の不老を祈っているとする解釈がある。
 自身で願っているとするのは、時代を問わずあつかましいように感じる。私は、皇女の変わらぬ若さを祈ったと受け取った。
 女性の変わらぬ若さを、川のほとりの岩にたとえているのがおもしろい。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり

<私の想像を加えた歌の意味>
あくまでも、どこまでも自己のことだけを思い続ける。
そんな利己心を持ち続ける自分を、自分が嫌になっている。
かなしい男だ。
この私は。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

やはらかに積れる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋むるごとき
恋してみたし

<私が考えた歌の意味>
降ったばかりの雪が柔らかく積もっている。
その雪の中に、ほてった頬を埋めたくなるほどの情熱を感じてみたい。
雪で冷まさなければいられないほどの恋の熱情を。

万葉集 巻一 21

紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも
むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに あれこいめやも


<私の想像を加えた歌の意味>
あなたを人妻と知っていても、恋心は募ります。
だって、あなたは紫草が匂うように美しいではありませんか。
ほんの少しでもきらいなとことがあれば、こんな気持ちにはなりませんよ。

<歌の感想>
 巻一と二は、万葉集編纂の時期において、既に古い歌であり、公の歌という性質が強いと解説される。そう考えると、近代の短歌のように、作者の経験に根差した人妻への禁じられた恋の歌というのとは異なる。
 世の中の慣習に背くような男女関係という要素よりは、このような男女の結びつき方もあり、それを表現している多くの和歌の中の典型的な作品と見る方がよいと思う。
 特定の当事者間の恋の贈答の歌ではなく、多くの場合に当てはまり、共感を得るような作として伝えられていると想像できる。現代のポピュラーな恋の楽曲が、個人のことを歌っているのに、それを聞いて共感できるのは非常に多くの人々であるというのと共通するのではないか。

万葉集 巻一 20

あかねさす 紫草野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

<私の想像を加えた歌の意味>
あなたは、むらさき野まで入ってきました。
むらさき野は、勝手に入ってはだめな野ですよ。
そこで、私に大っぴらに手を振っては、野原の番人に見つかってしまいますよ。

<歌の感想>
 「君」が誰のことで、作者はこの「君」と関係のある額田王というのが多くの解説にある。もちろん、そういう歴史的な背景を想像するのは、古典を鑑賞する視点として大切だ。
 だが、「袖振る」が何を意味するか、「君」が誰であるか、を詮索しなくとも、この作品の音の美しさとだいたいの雰囲気を味わうことはできると思う。

万葉集 巻一 19

総麻かたの 林の前の さ野榛の 衣に付くなす 目につくわが背
へそかたの はやしのさきの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ

<私の想像を加えた歌の意味>
はりが着物をよく染めるように、あなたの姿が目に染みつきます。
ここは、へそかたの林です。
ここには、はりの木がたくさん茂っています。
このはりが衣を染めるように、あなたの姿が私の心を染めます。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

<私の想像を加えた歌の意味>
理由なんてない。
目的もない。
ただ家にいるのがいやなだけ。
そういうときは当てもなく出て歩く。
さびしいといえば、さびしい。
毎日仕事をするのがいやなだけ。
家にいるのもいやなだけ。
そういうときは当てもなく出歩く。
俺は、そんな男だ。
そんな男になって、もう三か月も過ぎた。

 私にもごく似たような経験がある。

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも

 ただし、私の場合はかなり年を取ってからだ。
 啄木の年齢を考えると、不思議な気もする。啄木の場合は、中年や老年になった自分に驚くというのとは異なる感覚なのだ。
 啄木には、日々の生活に追われ、自己の姿をみすぼらしいものにしていく世の中が見えているのだろう。
 似た経験とはいえ、やはり私の感覚とは違う。


いつも逢ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

 これも、覚えのある感覚だ。
 でも、「このごろ気になる」で、気にしなくてもよいことを気にしている自己を見つめていることが伝わってくる。
 私の場合なら、あいつ目つきの悪い奴だ、きっと性格も悪くて誰からも相手にされないのだ、と「小男」を憎んで終わるだろう。

 わかりやすい心情が表現されているが、日常の出来事を描いているだけとは違っている。

 一方で、非常に特異な行為や心情が表現されている作品もある。 


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

 
泣きながら蟹と遊ぶ、ということは、叱られた子どもでもないかぎりは理解しがたい行動と心情だ。
 なぜ、こんなにもわかりやすい作品と、わかりづらい作品があるのだろうか?

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

空家に入(い)り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに

<私が考えた歌の意味>
空家に入っていって、そこで煙草をのんだことがある。
だれのものか分からない空家に。
人に見つかればとがめられるだろう。
どうして、そんなことをしたのか。
ただ、独りになっていたかっただけのことだ。

石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」 より

何(なに)となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下(お)りしに
ゆくところなし

<私が考えた歌の意味>
ただ汽車に乗りたくなって、知らない駅の切符を買った。
その駅で汽車を降りた。
さて、駅前に出てみたが、どこへ行くという当てもない。

<歌の感想>
 鉄道や旅のマニアではない。目的のない行動に身を任せ、その中の自分を表現している。
 来たことのない駅が、寂れた小さな駅で見物するような所がなくても、それはそれでいいのだ。

※以前の記事を改めました。

 何がきっかけになっているかわからないが、万葉集を年に何回か開く。
 
 私の古文を読む力では、口語訳がないと意味をとらえられない。そこで、今でも口語訳に頼りながら読んでいる。
 ただし、口語訳や大意は、原文に忠実なので、独特な現代文になっていて、意味が伝わってこないことがある。
 そこで、私なりに、歌の意味を自分がわかるように書いている。だから、原文に忠実ではないし、古典文法を調べた上のものでもない。

 

このブログの万葉集の本文については、概ね以下のようにしている。

・万葉集の訓み下し文は、日本古典文学全集 萬葉集 小学館・日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店より書き抜いた。
・読みについては、訓み下し文に沿って、私が現代仮名遣いで表記したので誤りも多いと思う。
・<私が考えた歌の意味><私の想像を加えた歌の意味>は、すでにある口語訳や解釈を読んだ上でそれらを参考に書いている。

万葉集 巻一 18

三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなも かくそうべしや


<私が考えた歌の意味>
三輪山を雲があんなに隠してしまった。
雲に心はないとはわかっている。
でも、雲だからといって三輪山を隠してしまってよいものか。

<私の想像を加えた歌の意味>
雲が三輪山をすっかり隠してしまった。
三輪山はもうここからは見えない。
雲さえなければ、まだ見えていたのに。
雲に願ってもしかのないことだが、せめてもう少し三輪山を見せてほしかった。

<歌の感想>
 離れたくない地を離れなければならないのであろう。名残惜しさと、でもそこから離れていくあきらめとが伝わってくる。

 長歌は、逐語訳しなければ、歌の意味を散文にしやすい。
 だからといって、散文として、読むと意味のつながりが奇妙になる。
 ただ、柿本人麻呂の長歌は、その点、リズムもよいし意味も取りやすい。人麻呂の長歌は、他の作者とは違う。
 額田王の巻一16の長歌は、清少納言の文体につながるようにも感じる。
 長歌という形式がなぜ廃れてしまったのか、興味が湧いてきた。

万葉集 巻一 17

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の
うまさけ みわのやま あおによし ならのやまの

山のまに い隠るまで 道の隈 い積もるまでに
やまのまに いかくるまで みちのくま いつもるまでに

つばらにも 見つつ行かむを しばしばに 見放けむ山を
つばらにも みつついかんを しばしばに みさけんやまを

心なく 雲の 隠さふべしや
こころなく くもの かくそうべしや

<私の想像を加えた歌の意味>
三輪山を少しでも長く見ていたかったのに。
雲が隠してしまった。
奈良を離れる道中で振り返り振り返り見ていたかったのに。
三輪山が雲に隠れてもう見えなくなってしまった。
三輪山が見える地を離れたくないのに。

万葉集 巻一 16

冬ごもり 春去り来れば 鳴かざりし 鳥も来なきぬ
ふゆごもり はるさりくれば なかざりし とりもきなきぬ

咲かざりし 花も咲けども 山をしみ 入りても取らず
さかざりし はなもさけども やまをしみ いりてもとらず

草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては
くさふかみ とりてもみず あきやまの このはをみては

黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く
もみちをば とりてそしのう あおきをば おきてそなげく

そこし恨めし 秋山そ我は
そこしうらめし あきやまそあれは

<私の想像を加えた歌の意味>
春の山と秋の山とどちらがよいか、と問われたので答えます。
私は秋の山の方がよいと思います。
春は、鳥の声が聞こえるようになり、花も咲き出して、よいところはたくさんあります。
でも、春は草木がどんどんと生い茂り、山に入るのがむずかしくなります。
山に入れないと、せっかく咲いた花を近くで見たり、手に取ったりはできません。
秋は、山にも楽に入っていけます。
黄葉も近くで見たり、手に取ることもできます。
秋の山で、残念なのは青いままの葉を喜ばない人がいることです。
だって、黄葉の中の青い葉も美しいのです。
ですから、秋の山は春に勝ります。

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