万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

木綿畳手に取り持ちてかくだにもわれは祈ひなむ君に逢はじかも
大伴坂上郎女

ゆうだたみ てにとりもちて かくだにも われはこいなん きみにあわじかも
おおとものさかのうえのいらつめ


気持ちを集中させてこんなにも一心不乱にお祈りをしています。
天候の順調を願い、作物の豊作を願い、一族の繁栄を願い、あらゆることがうまくいくように全身全霊で祈りました。
でも、そんなにすべてがうまくいくものでしょうか。
だいたい、私にふさわしい男性が現れてほしいという、私一人の願いさえ叶いそうもありませんから。

※私の勝手な受け取り方です。しばらく、万葉集で最も多くの歌を残している女性である大伴坂上郎女の作品を読んでみます。

黒髪に 白髪交じり 老ゆるまで かゝ恋には いまだあはなくに
くろかみに しらかみまじり おゆるまで かかるこいには いまだあわなくに



艶めいていた私の黒髪も白髪が交じるようになりました。
年を取ったことをつくづく感じます。
そんな年齢になってこんなにもあなたに恋するなんて。
若いころにはなかったほどの恋心です。

 老いた女性からの強い恋情の表現ととれる。でも、素直な心情とは言えない。相手からの歌に返した作だから、どこかに冷静さと相手の歌に応じるしたたかささえ感じる。
 だからと言って、表現技巧だけのものとも受け取れない。白髪は、実際に感じていることだろうし、相手のことを憎からず想っていると思う。
 「いまだあはなくに」には、人生経験を積んだ女性の恋心が込められている。

 男性からの歌(559)が、どことなく理屈ぽく女性よりも優位に立とうしている感じがするのに比べると、格段に気持ちが伝わってくる作だ。

事もなく 生きましもの を老いなみに かかる恋にも 我はあへるかも
こともなく いきましものを おいなみに かかるこいにも われはあえるかも

これまでは平凡で無難に生きてきました。
それが、いろいろと経験を積み、それなりの年齢になった今、こんなにも激しい恋心をもつとは思いませんでした。
それほどの思いで、あなたのことを恋しく思っているのですよ。

 この作に呼応している歌(563)と対で見ると、経験のある男女が互いに年齢を逆手にとって、駆け引きを楽しんでいるように感じられる。この作者は、次のように思ってこの歌を作ったと感じた。

 この年齢になると、よく使われる表現の仕方では、彼女に思いは通じないだろうなあ。それならいっそ年を取ったことを歌に詠みこんで、彼女の心を揺さぶってみよう。

この世には 人言繁し 来む世にも 逢はむわが背子 今ならずとも
このよには ひとごとしげし こんよにも あわんわがせこ いまならずとも  


この世であなたと私がいっしょになるには世間の口がうるさすぎます。
互いの事情をかなぐり捨てて、別の世界で暮らしましょう。
今でなくても、来世であっても、あなたといっしょになれるならそれでも私はかまわない。  

 時代が違えば心中ということか。心中という言葉も行動も最近は聞かなくなった。恋する二人を妨げる世間がなくなったからなのだろうか。今の日本に恋する二人を妨げるものは少ない。

 万葉の時代は、物理的な距離さえもが二人をいっしょにさせない要素になっている。「人言繁し」とあるように、他人の言葉やこの時代の男女間の風習も、恋人同士を自由に行き来させない要因になっている。ただし、古代であろうとも、歌にするということは、自分の思いを表現によって、恋の相手と他の人にも伝えるということである。それゆえ、想いの強さを「今ならずとも」と相手に示すところに、作者の意図がある。
 こういう表現を相手から示されると、まんざらでもないという気分を通り越し、「おもいなあ。」と感じてしまうかもしれない。

わが背子に または逢はじかと 思へばか 今朝の別れの すべなかりつる  
わがせこに またはあわじかと おもえばか けさのわかれの すべなかりつる


今お別れをすると、もう二度と逢えないような気がします。
だからなのでしょうか、今朝のあなたを見送るとき、優しい言葉をかけようとしても、笑顔をつくろうとしても、どうしてもできません。
なにもできなくてただ見送るのが、精いっぱいでした。

本屋のとなりは写真館 のカテゴリー「万葉集 私なりに読む」を移転、独立させました。


 口語訳のような文章になっていますが、口語訳や解釈ではありません。私なりに、万葉集の歌から受け取ったことや、万葉集についての口語訳や注釈から理解できたことを書いていきます。

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