万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず

<私が考えた歌の意味>
私の妻は、若い頃は音楽が好きで、将来は音楽にかかわることをしたいと願っていた。
それなのに、今は、歌さえ歌うことがない。
妻の夢は、叶わなかった。

<歌の感想>
 妻のことを題材にしているが、夢を諦めた妻自身の心情を表現しているのではないと思う。自分の妻を題材としながら、若い頃の希望を実現できない現実と、その現実に圧し潰される庶民の悲しみを感じる。
 これは、「煙」全体を通して感じることのできるテーマだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

近眼(ちかめ)にて
おどけし歌をよみ出でし
茂雄の恋もかなしかりしか

<私の想像を加えた歌の意味>
茂雄は近眼で分厚い眼鏡をかけていた。
どこかおどけた短歌をよく作っていた。
その茂雄の真剣な恋は実らなかった。
失恋を茂雄はひょうきんに話していた。
今、思い出すと、その時の茂雄の心中がわかる。
あのころの茂雄の失恋の悲しみが、今、わかる。

万葉集 巻三 247 石川大夫(いしかわのだいぶ)が唱和した歌一首

沖つ波 辺波立つとも 我が背子が み船の泊まり 波立ためやも
おきつなみ へなみたつとも わがせこが みふねのとまり なみたためやも

<私の想像を加えた歌の意味>
沖の方には波が立っているようです。
岸辺にも波が立っています。
でも、御心配はいりません。
あなたのお船の進む航路にも、到着する港にも波の立つことはありません。
あなたの船旅の無事を信じています。

万葉集 巻三 246 長田王(ながたのおおきみ)が筑紫に遣わされ、水島に渡る時の歌二首(245・246)

芦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ
あしきたの のさかのうらゆ ふなでして みずしまにいかん なみたつなゆめ

<私の想像を加えた歌の意味>
今回の長旅はここまで無事であった。
水島の神々しい雰囲気も感じられるようになってきた。
さあ、これから船出する。
船出するのは、芦北の野坂の湾。
あとは水島に到着を待つばかり。
水島までの船旅は、波が荒くなるようなことが決してないことを願う。

万葉集 巻三 245 長田王(ながたのおおきみ)が筑紫に遣わされ、水島に渡る時の歌二首

聞きしごと まことに貴く 奇しくも 神さびをるか これの水島
ききしごと まことにとうとく くすしくも かんさびおるか これのみずしま

<私の想像を加えた歌の意味>
水島が見えてきた。
なんと神々しい所だ。
今までいろいろと聞いていた通りに貴い雰囲気が漂っている。

<歌の感想>
 作者の感動は強くないような気がする。水島という地を褒め上げなければならないような事情の下に詠んだ短歌と感じる。

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

たぶん来る明日の方へゆつくりとペダルの上の雨を踏み込む

 将来への展望の感じられない現状を描いているのに、この一連の短歌は前に進もうとする気持ちを感じる。それを、この作からはっきりと感じる。
 明日が来ることさえ、確信がもてない。だけど、「たぶん来る」とどこかで楽観している。そして、雨と自転車と自分の行為を、情感として表現している。この抒情が作者の強みなのだと思う。


そのむかし秀才の名の高かりし
友牢にあり
秋のかぜ吹く

<私の想像を加えた歌の意味>
秋の風を感じる。
空模様も風景も秋の気配だ。
ふと、友のことを思う。
牢に入れられたという友のことを。
なんの罪で牢に入れられたのか詳しくはしらない。
しかし、人を傷つけたり物を盗んだりする友ではなかった。
それどころか、むかしは秀才で有名な友であった。
きっと、罪を犯さざるえない事情があったに違いない。
心が寒くなるような秋風がふく。


夢さめてふつと悲しむ
わが眠り
昔のごとく安からぬかな

<私が考えた歌の意味>
深夜ふっと目が覚めた。
目が冴えて寝付けなくなった。
思うのは悲しいことばかり。
私の眠りは昔は安らかだった。
今は、熟睡できない夜が多くなってしまった。

<歌の感想>
 ただ睡眠のことを表現しているのではあるまい。
 今よりももっと若い頃、故郷にいた頃、その頃も平穏な日々を送っていたのではない。だが、今の暮らしに比べると、昔の方がずっと安らかだったと懐かしんでいる気持ちが伝わってくる。

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

ひとつづつ昔の傷をうづかせて入社と退社をあまた記せり

 私は、この短歌で表現されていることが気になっていた。どうして最近はこうなったんだ!と思う。
 それは、就職、就労、つまりは働き方が非常に不安定なものになってしまったことだ。
 この短歌は、そのただなかに生きている人の思いが描かれている。
 
 雇用する側にとっても、雇用される側にとっても、労働力の需要と供給に応じるには、現代の就労形態が都合がよいのであろう。今は、過去の安定感のある終身雇用の形態はまったくあわないのだ。 
 そうなると、一人の人が入社と退社を繰り返すのは当たり前のことになる。
 「入社と退社をあまた」して、より高い収入を得て労働意欲を高める人もいるであろう。
 現代の労働環境が、作者のように「昔の傷をうづかせる」ことにつながる人もいるであろう。
 職を変えることによって、「傷」を増やしていく作者のような人が増えている、と私は感じる。終身雇用でなくても、安定感のある働き方はあるはずだと思いたいのだが‥‥

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

三冊の求人情報誌を広げ見たことのある未来を選ぶ

 自分が過去の人間である、と感じてしまう。私は、学生時代を含めて「求人情報誌」を見たことがない。また、社会へ出てからは、転職をしたこともない。これはもう現代に生きているとはいえないのかもしれない。
 それともそんなことはないのか?

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

さびしさのひきおこしたる症状がつぎつぎあふれだす月の夜

 歌われている題材は、平凡だ。表現方法が現代だ。時代が違えば、「症状」は病気の場合に使われる言葉だった。今は、このように使われてもスッと理解できる。
 言葉の変化なのか?それとも、現代は「さびしさ」も病気ととらえられているのか?

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

平日の街をゆき交ふ人たちの健全な目に射られてあせる

 平日の街は、働く人たちであふれている。まるで、自分だけが仕事を持たない人のようだ。
 忙しく動く街の活気、それに比べて、自分だけ時間を持て余している。それを、知っているかのように働いている人たちが、仕事のない私を見つめてくる。
 周囲から取り残されたような感覚にとらわれている作者が描かれている。
 ただ、「健全な目に」の句が気になる。これは、忙しそうに働いている人たちの目を「健全」と表現しているのだが、忙しく働いている人が健全なのだろうか。
 作者自身が、街の人たちからまるで非難されているように感じているのは伝わるが、忙しく働いている人たちの目を健全と括ってしまえるものだろうか。さらに、作者自身が、街を忙し気に歩いている人たちの目を、「健全な目」と感じているとは思えない。
 社会では、働き口のある人を健全な人と規定していると、作者は言いたかったのかもしれない。

朝日新聞夕刊2018/7/11 あるきだす言葉たち 7・11アゲイン 熊谷 純(くまがい じゅん)

ゆき先を決めずバイトを辞めたれば世界は朝から晩まで樹海

 私は、次の働き口を決めずにそれまでの仕事を辞めたことがない。それは、私だけではなく、過去の世間の常識だった。今は、その常識が通用しなくなっていることに最近になって気づいた。
 では、次の収入源も定かでないのに、今の仕事を辞めることは普通のことになったのか。
 そうではあるまい。現在だって、生計の目途が立たないのに仕事を辞めるのは、不利であり、不安なことであろう。
 バイトを辞める理由のひとつに、バイト先の人間関係がいやだ、が考えられる。仕事先の人間関係は、仕事の内容と勤務条件が密接にかかわってくると思う。過去の職場の人間関係づくりは、過去の職場の勤務内容と勤務条件の上に成り立っていた。
 たとえば、飲食店の店員という業務にしても過去と現在とでは大きく違う。過去は、個人の店主とその家族がその店には常時いて、そこにアルバイト店員が入るという形態だった。現在は、期限付き雇用の店長と完全なシフト制のアルバイト店員という形態が多い。これだけ、勤務条件が違うと、過去のようには職場の人間関係も成立しない。
 バイト先を辞めるその他の理由についても、同様のことがいえると思う。

 バイト先を辞め、次の仕事が見つからないからといって、悲観するのでも困窮するのでもない。
 だからといって、気楽になんとかなるさ、と思う気持ちにもなれない。
 まさに、「朝から晩まで樹海」をさ迷うような深い不安の中に放り出されている作者を感じる。

万葉集 巻三 244 或る本の歌一首

み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに
みよしのの みふねのやまに たつくもの つねにあらんと わがおもわなくに

<私の想像を加えた歌の意味>
み吉野の三船の山の頂上には、いつも雲が湧き起っている。
あの雲は、季節を問わず、時を問わず、何百年と湧きたなびているのであろう。
あの雲のように、私の命が命がいつまでもあるとは思えない。
私の命は、限りあるはかないものだ。

<歌の感想>
 注釈書では、242の「居る雲の」の方が常住性が描かれていて、優れているとするものもある。私は、「立つ雲の」の方が、姿を変えながらもいつも雲が山頂にかかっている景色を想像できて、意味を理解しやすい。

万葉集 巻三 243 春日王が答え奉った歌一首

大君は 千歳にまさなむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
おおきみは ちとせにまさなん しらくもも みふねのやまに たゆるひあらめや

<私の想像を加えた歌の意味>
いつまでもこの世にはいないなどと仰せになることはありません。
三船の山の頂には白い雲がいつまでもかかり続けます。
皇子様も三船の山の白い雲のように、千年もおすこやかでいらっしゃるにちがいありません。

<歌の感想>
 理屈でつくろっているように感じもする。しかし、242から感じられる弓削皇子の吉野の景色をすなおに楽しめない心持を、答える歌で、変えようとしていることが感じられる。

万葉章 巻三 242 弓削皇子の吉野に遊ばれたときの御歌一首

滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに
たきのうえの みふねのやまに いるくもの つねにあらんと わがおもわなくに

<私が考えた歌の意味>
吉野川の急な流れのほとりに三船の山がそびえる。
その三船の山の上には雲が動かずにかかっている。
あの雲も、いつまでも同じところいることはない。
私も、あの雲のようにこの世にいつまでもいるとは思わない。

<私の想像を加えた歌の意味>
吉野川の急流は絶え間なく流れ続ける。
吉野川のほとりには、三船の山がそびえている。
三船の山の頂上には、雲が動かずにかかっている。
あの雲も、いつかは消えてしまう。
私も、あの雲のようにいつかは消えてしまう。
人は、この世に生まれ、滅びゆくものだ。
私は、いつこの世から消えても不思議ではないと思う。

与謝野晶子 『みだれ髪』 臙脂紫 より

紫に小草(をぐさ)が上に影おちぬ野の春風に髪けづる朝

<私が考えた歌の意味>
野の若草の上に朝日がさまざまな影を落とします。
髪をくしけずる私に春風が吹きます。
若草の上の朝の影は紫色です。

<歌の感想>
 晶子の特徴である独特な色の表現だと感じる。そして、私には意味のとりづらい作品だ。もともと意味云々で味わう短歌ではないのだろう。

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