万葉集のかたわらにキーボード

記事は、原文に忠実な現代語訳や学問的な解釈ではありません。私なりにとらえた歌の意味や、歌から思い浮かぶことを書いています。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

このごろは
母も時時ふるさとのことを言ひ出づ
秋に入れるなり

<私の想像を加えた歌の意味>
母がこのごろ時々故郷のことを話題にする。
私と母は故郷のことを話すことがほとんどない。
母は、私の前で、故郷のあれこれを話すのをためらっているのだ。
そんな母が、我慢できなくなったように故郷のことを話題にする。
秋という季節が、母の望郷の想いを強くしているのだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

飴売のチャルメラ聴けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし

<私の想像を加えた歌の意味>
幼いころのすなおな心を今はすっかりなくしてしまった。
人を疑うことも人の悪意を見抜こうとすることもない時期が私にもあった。
久しぶりに子どもの頃に楽しみにしていた飴売りのチャルメラの音を聞いた。
そのとたん、幼いころの心を思い出した。
まるで、失くした大切なものをひろったように。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

<私が考えた歌の意味>
二日前に山の絵を見た。
その絵を見た時はそんなことは思わなかった。
今朝になって、急に恋しくなった、ふるさとの山を。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷の山を見たい。
今朝、急にそう思う。
故郷にいるときはなんのへんてつもない山として見ていたのに。
どうして急に故郷の山が見たくなったのだろう。
そうか、二日前に山の絵を見ていた。
もちろん、その絵は私の故郷の山を描いたものではない。
私にとって、山とは、すべて故郷の山が元になっているのだろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わかれおれば妹いとしも
赤き緒の
下駄など欲しとわめく子なりし

<私が考えた歌の意味>
別れていると、妹のことが恋しくなるよ。
どんな妹だったかというと、うまくいえないのだが‥‥。
赤いはなおの下駄が欲しい、とわめく子だったよ、妹は。

<歌の感想>
 故郷には、家族がいる。家族の中には妹もいる。故郷の家族から離れていると、妹のことをときに恋しく思う。妹とは特別に仲がよかったかというと、そうでもない。妹のことで思い出があるかといえば、それも特別なことはない。ただ妹が幼い頃にわめいて物を欲しがっていた様子くらいしか思い出せない。でも、そのどこにでもあるような暮らしの思い出が、今は貴重なものに思える。そんな作者の思いが伝わってくる。
 兄妹との関係に理屈はない。成長も発展もない。互いに年齢を重ねても、妹も兄も幼い頃に戻ってしまう。家族とは、兄妹とは、そういうものなのだ。
 啄木は、家族と離れ、妹とも長く会っていないのであろう。変化も成長もない家族の中に、啄木が埋没することはない。家族の中に埋没することはないが、家族の中で暮らす喜びを、否定することもない。むしろその失われつつある家族のつながりを、啄木は失いたくないと思っているように感じる。

万葉集 巻三 251 柿本朝臣人麻呂の旅の歌八首(249~256)

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
あわじの のしまのさきの はまかぜに いもがむすびし ひもふきかえす

<私が考えた歌の意味>
淡路の野島の岬に浜風が吹く。
吹き寄せる浜風に私の着物の紐が吹き返される。
旅立つときに、妻が結んでくれた紐が吹き返される。

<私の想像を加えた歌の意味>
着物の紐が風に吹かれなびく。
ここは、淡路の野島の岬。
長い旅を経て、ここまでやってきた。
淡路の野島に吹く浜風は強い。
旅立ちの折に、無事を祈って妻が結んでくれた紐が浜風に吹き返される。
はるか離れている妻のことを思う。
妻も私のことを思っているだろう。
ここは、淡路の野島の岬。

万葉集 巻三 250 柿本朝臣人麻呂の旅の歌八首(249~256)

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 舟近付きね
たまもかる みぬめをすぎて なつくさの のしまのさきに ふねちかづきぬ

<私が考えた歌の意味>
敏馬の海岸では海人たちが海藻を採集している。
その敏馬を過ぎて舟は進む。
夏草が茂っている野島の崎が見えてきた。
その野島の崎に舟が近づいていた。

<私の想像を加えた歌の意味>
舟は、敏馬の辺りに差しかかった。
ここ、敏馬は、立派な海藻が採れる海岸と聞いているが、聞いていた通り豊かな海に見える。
海は穏やかで、舟は順調に進む。
岬が見えてきた。
夏草で青々とした岬だ。
あれは、野島の崎にちがいない。
舟は、もう野島の崎に近づいた。

万葉集 巻三 249 柿本朝臣人麻呂の旅の歌八首(249~256)
御津の崎 波を恐み 隠り江の 舟公宣奴嶋尓

 
歌の第四句以下は、現在に至るまで解読不可能 (新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店)
とされている。
 題詞については、
「羇旅の歌八首」は、瀬戸内海の旅の歌である。摂津国・播磨国と淡路島西海岸の地名が多く詠まれているが、配列の順序については明解を得ない。
と解説されている。(新日本古典文学大系 萬葉集 岩波書店)

万葉集 巻三 248 また長田王が作った歌一首

隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くもわれは 今日見つるかも
はやひとの さつまのせとを くもいなす とおくもわれは きょうみつるかも

<私が考えた歌の意味>
隼人の住む薩摩の瀬戸が遠くに見える。
まだはるかかなたの雲を見るように遠くではあるが、あれは薩摩の国だ。
今日、薩摩の国が見える所まで、はるばるたどり着いたのだ。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふるさとの
かの路傍(みちばた)のすて石よ
今年も草に埋もれしらむ

<私の想像を加えた歌の意味>
ふるさとのある路の路端にわりと大きな石があった。
その石は、転がっているたくさんの石よりも大きいのに何かのためにあるというのではなく、ただそこにあった。
草が生い茂らない時期は、石の姿は見えている。
夏草が生い茂ってくると、その大きな石もすっかり草に埋もれてしまう。
ふるさとを離れていると、あんな石のことまで懐かしくなる。
今年も暑い季節になった。
ふるさとのあの路傍の石は、また草に埋もれているだろう。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

その昔
小学校の柾屋根(まさやね)に我が投げし鞠(まり)
いかになりけむ

<私の想像を加えた歌の意味>
私が小学生だった頃のことだ。
友達と遊んでいて、私が思いっきり投げたボールが、学校の柾屋根に上がってしまった。
いつもなら、ボールは自然と落ちて来るのに、そのときは、柾にでもひっかかったのか、落ちて来ない。
先生に言うかどうか、友達皆で相談した。
友達は、こんな所でボール遊びをしたことを先生に叱られるだろう、と言う。
友達は、おまえが投げたんだから、おまえ一人で叱られてこい、と言う。
ボールは惜しいが、先生に叱られるのは嫌だった。
結局、私も友達も先生に言いに行かなかった。
屋根に上がったあのボールはいったいどうなったんだろう。
そんな小さなことが妙に気になることがある。

<歌の感想>
 具体的な出来事が描かれているだけに、かえって思い出だけを表現しているとは思えない。柾屋根の小学校は、貧しく停滞した故郷のイメージが湧く。屋根に投げ上げて不明になった「鞠」は、見失い戻ってこない大切なものを描いていると思う。
 故郷は、作者にとって、貧しくて進歩のない世界として描かれている。そして、貧しくて、進歩がない所なのに、そこは、美しく、切ないほど戻りたい世界なのだ。
 繁栄と進歩だけが価値を持つ都会と、変化をきらい伝統をなによりも大切にする村、この両者が常に対比されるように啄木の心中にはあると感じる。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

亡(な)くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る

<私の想像を加えた歌の意味>
昔、先生から地理の本をいただいたことがあった。
その本を私にくださった先生は、すでに亡くなっている。
その地理の本を使うことは、今はない。
だが、その古くなった地理の本を今でも本棚に並べてある。
必要があって読もうというのではないが、時々その本を取り出すことがある。
そこからは、故郷の学生時代のこと、懐かしい先生のことが浮かび上がって来るから。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
三年(みとせ)聴かざり

<歌の感想>
 歌の意味は、短歌表現のそのままだ。こういう作を見ると、啄木を天才歌人だとつくづく感じる。思ったことそのままを五・七・五・七・七にしているように感じる。それでいて、説明的でもなければ、平凡でもない。
 これほど、懐かしく思い出すふるさととは、なんなのだろう。そして、現実的には、そのふるさとに戻り、そこで暮らそうとしないのは、なんなのだろう。
 これは、啄木だけでなく、時代を超えて私たちに問われている課題だ。ふるさとには、限られた仕事しかなくて、若い人々の生活の受け皿がないというだけのことではない。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

やまひある獣(けもの)のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

<私が考えた歌の意味>
まるで病気の獣のように誰にでも歯向かっていく。
それが、私の今の精神の状態だ。
そんな私の精神だが、ふるさとのことを聞けば、落ち着き静かになる。

<私の想像を加えた歌の意味>
自分でも自分の心を持て余してしまう。
何にでも苛立ち、誰にでも歯向かって行く。
まるで病気の獣のような私の心が、静まるときがある。
それが、故郷のことを知らされるときだ。
些細なことでも、故郷についての話題を聞くとき、故郷のことを想うとき。
そのことだけが、私の心は静め、穏やかにする。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴きにゆく

<私が考えた歌の意味>
こうやって都会に住んでいると、故郷の方言がなつかしくなる。
駅の人ごみの中には、いろいろな地方から出て来る人々がいる。
その中には、私の故郷から来た人もいるはずだ。
故郷の方言が駅では聴こえてくるはずだ。
故郷の方言を聴きたくて駅に行く。

<私の想像を加えた歌の意味>
故郷が懐かしい。
だが、帰郷しようとは思わない。
戻ったところで、故郷で過ごした時間は戻らない。
駅の人ごみの中では、故郷のなまりが聴こえることがある。
今日はそれを期待して駅に行ってみよう。
故郷は懐かしいが、戻ることはできないし、戻ろうとも思わない。
駅の人ごみの中で、聴こえてくる訛だけで、今の私には十分だ。

「煙」一 に共通するもの ※「煙」の章は、一と二に分かれている。ここまでが、一で以降が二。

 学生時代の将来への希望がことごとく破られていく様子が感じられる。若い頃の精神を持ち続けることができないのは、作者自身の精神の在り方のせいでもあろう。そして、若者の熱情をたちまちのうちに冷ましてしまう都会の現実のせいでもあろう。
 「煙 一」の作品のすべてが、学校を卒業し、故郷を出ると驚くほどの短期間で若者が、現実の前で無力になっていく様が描かれていると思う。 次の作青空には、その代表だと思う。

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

 啄木の時代は、学生は現実の非情さから隔離されている面があった。故郷にいた間、学校にいた間は気づかなかったが、そこから一歩外へ出てみると、学生時代の苦労のなさと故郷の懐かしさが身に沁みるのだと思う。
 次の作盛岡のからは、作者が、学生時代を心から懐かしんいることが伝わってくる。

盛岡の中学校の
バルコンの
手摺に最一度われを倚らしめ

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

糸きれし紙鳶(たこ)のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな

<私の想像を加えた歌の意味>
若いころの心はもうない。
まだ数年しか経っていなのに。
学生時代のことが、故郷でのことが、あの頃の心の瑞々しさが消えてしまった。
まるで、糸の切れたたこのように、どこかに飛んでいってしまった。
若いころの真剣な熱情が、軽い軽いものになってどこかに飛び去ってしまった。

石川啄木『一握の砂』「煙」 より

わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日

<私の想像を加えた歌の意味>
今日も平凡な一日だった。
楽しいことなどない一日が過ぎていく。
なぜ、そんなことを思い出したのか、自分でもわからない。
故郷での学生時代のこと。
わが恋をはじめて友にうち明けた夜のこと。
その夜の友とのやりとりとその時の気持ちを思い出した。
あの頃の気持ちと今とを比べると、あまりにも違う気がする。

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